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終焉

 氷が壁に埋め込まれているかのように、廊下は清潔で落ち着いた雰囲気があった。中庭の新緑は豊満な夏の日差しを浴びて輝き、木陰のベンチでは小柄な看護師と子どもが談笑している。外では蒸し暑い午後の陽気が垂れ込めているが、子どもの顔は涼しげで、陶磁器のように白かった。

 廊下は患者の体臭や消毒液の匂いや見舞いの花の香りなどが混じり合い、独特の空気が漂っていた。病室の前に来て、ネームプレートを確認してから、ドアを軽くノックする。どうぞ、という声があり、病室の中に入ると、ベッドの上で半身を起こしている日香里の姿があった。

「千景、来てくれたんだ」頬をほころばせながら、日香里が言った。「怪我(けが)の具合は大丈夫なの?」

「お腹にまだテニスボールくらいの(あざ)があるけど、問題ないよ。こうやってお見舞いに来れるくらいには元気」ベッドの脇にあるパイプ椅子に腰掛け、鞄を床に置いた。

「そう、良かった……」

「日香里の調子はどうなの」

「まだふらふらするけど、普通に歩けるようになったよ」日香里は控えめな笑みを浮かべて言った。「重度の脱水と栄養失調で危険な状態だったってお医者さんが言ってたから、病院のご飯をたくさん食べるようにしたの。そうしたら私、看護師さんに心配されちゃった。そんな一気に食べたら、胃がびっくりしちゃいますよって」

 二人分の柔らかい笑い声が、病室の壁に染みこんでいった。部屋の窓からは陽光が差し込んでいるが、空調が適切に動いており、心地良い温度に保たれている。テーブルには色とりどりの花やクラスメイトからの手紙があり、華やかだった。

 笑いの波が去ったあと、日香里が「そういえば」と言葉を発した。

「今度の日曜日、行けなくてごめんね」

「『LUNA BLOOD』のライブ?」思わぬ角度からの()びに、私は驚きの声を漏らした。「いいって、ライブならいつかまた行けるからさ。それより自分の身体を気にしなよ」

「あと一週間で退院だし、大丈夫だって。でも、これはちょっと困ったな」そう言って、左手首の傷跡に目をやった。「半袖のシャツを着ると、目立っちゃうんだよね」

 熱した鉄の輪をはめられたように、日香里の手首には黒っぽい傷跡が残っていた。長い時間手錠で縛られていたため、汗と血で()んだ皮膚が炎症を起こしていたらしい。完全に跡が消えることはないってさ、と日香里は嘆息した。

「そんな日香里に、良い物をあげよう」雰囲気が暗くなるのを避けるため、わざと戯けた口調で言った。

「なんだろう、お菓子?」

 微笑みながら「残念、違うよ」と応えると、私は鞄の中を探り、日香里にリストバンドを手渡した。

「これ、良かったら使って」

(もら)っちゃっていいの?」日香里は黄色いリストバンドを左手首にはめた。何度か左の手首を曲げて、具合を確かめている。「ありがとう、大事にするね」

 綿の感触を指先で楽しんでいるのか、日香里はしばらくの間リストバンドを指先で擦っていた。部屋には無言の時間が流れて、蝉の合唱や廊下を行き交う人の気配などがすっと遠くなったような気がした。まるで病室が音を食べる生き物と化したみたいだった。


 ベッドに体を預け、(へそ)のあたりに両手を重ねたまま、日香里は窓の外に視線を向けた。

「あの人はね、たぶん寂しかったんだと思うんだ」

「え?」不随意的に聞き返してしまった。

「用務員の、おじさんのこと」言葉を一語一語、噛みしめるような言い方だった。

「日香里は、あの人を憎いとは思わないの?」

「……もちろん、あの人のしたことは許せないし、憎かったよ。千景も、藤原君も、私も、怪我を負ったし、怖い思いをしたしね。どうして私がこんな目に遭うのって考えたこともあった」でもね、と日香里は言葉を区切り、こちらへ向き直った。「どんなに誰かを憎んでも、過去は変わらないもの。それに、誰かを(ねた)んだり憎んだりするのって、とてもエネルギーが必要なのよ。人を恨むのにエネルギーを消費するぐらいなら、もっとポジティブな方向にそれを使うほうが有意義だと思ったの。だから、今はもうなにも憎んでないよ」

 私は日香里の芯の強さに感嘆した。自分を客観視しながら淡々と語る彼女の表情からは、神秘的な気配すら感じられた。

「……あの日、昼ご飯の後に、何があったの?」

 慎重な口調で、私は日香里に尋ねた。彼女は昔見た映画のあらすじを思い出すような顔をして、口を開いた。

「あの時、トイレの個室から出たら、用務員のおじさんがいてね。あの人、たぶんトイレの掃除をしていたんだと思うんだけど……。女子トイレにおじさんがいることに驚いて、私ひどい言葉をぶつけちゃってさ。そうしたらあの人、頭に血が上って、デッキブラシで私の鳩尾(みぞおち)をグッと突いたの」

 用務員に肘で痛みつけられたことを思い出して、腹の痣がちくちくと疼いた。

「ひどい……」

「私、トイレの床に倒れて、そのまま意識を失っちゃってさ。目を開けたら、既に屋上であの状態だったの。たぶん廊下に人がいなくなってから、おじさんが私を担いで運び出したんじゃないかな……」冷静な口ぶりで、日香里は語った。

「屋上から、助けは呼べなかったの?」

「最初のうちは、脱出しようとしたんだよ」薄い笑みが唇の端に浮かんだ。「ただ、携帯は取り上げられてたし、布が巻かれて声は出せないし、手錠は全然外れないし……それに大声を出したら、またあの人に殴られると思ったの。おまけに外は暑かったからね。一応、貯水タンクが太陽の光を遮ってくれていたけど、だんだんバテてきたから、じっと動かないで寝ていたの」

「じゃあ、ずっと飲まず食わずだったのね……」

「ううん、夜になると食事が出たよ。昼間は水だけだったけどね」

「食事?」

「日が落ちて周りが真っ暗になると、あのおじさんは毎日手作りのご飯と水を持ってきたんだよ。プラスチックの容器に入れた鶏肉の煮物とかさ。最初は警戒していたんだけど、とにかく空腹で喉も乾いてたから、思い切って口にしたの。まあ、味は普通だったかな」

「その時、用務員は何か言ってたの」

「基本的に独り言だったけど、たまに話しかけてきたね。なんか、私のことを黒猫って呼んで、下から顔を覗きこんだりしてさ。私を奥さんだと、思い込んでいたんじゃないかな……」素足で虫を踏んだような苦々しい顔で、日香里が言った。

「そういえばあの人、自分のことを魔王とか呼んでたっけ……」屋上での用務員の台詞を回想しながら呟いた。

「食事が終わってからも、私の横でぶつぶつ言ってたよ。ライターの火を点けて呪文っぽい言葉を囁いたり、手製の人形を並べて話しかけたり、なぜエルフは俺を避けるんだって頭を抱えたり……」

「エルフ?」

「たぶん、うちの学校の生徒のことじゃないかな。男子の中には、蔑称であの人を呼んで、疎む人もいたから……」

 私も人のことは言えないけどね、と日香里は苦笑した。そういえば、日香里が失踪した日の朝、用務員の悪口を言っていたような気がする。

「気にしないでいいよ。あの人、やっぱり頭がおかしかったんだって……」

「……でも私、あのおじさんの気持ち、分からなくもないの」

 背骨に氷を当てられたような驚きに、私は椅子から転げ落ちそうになった。「日香里、正気なの?」

「毎晩あの人と食事を共にして、何となく分かったの」(せき)を切ったように、日香里は言葉を紡いでいく。「あのおじさんは、人との関わり方を知らなかっただけなんだよ。どうやって人と接して、何を話して、どうすれば嫌われないか、ずっと悩んでたんじゃないかな。あんな風に、自分の妄想に取り憑かれた原因は分からないけどさ。心の奥底ではずっと寂しくて、誰かと話がしたかったんだと思うの」

 室内を照らす明かりが日香里の睫毛に触れて、目の下に薄く陰を落としている。

 日香里の話を聞きながら、私はストックホルム症候群という言葉を思い出していた。テレビのドキュメンタリー番組の解説で、その用語が使われていたのを覚えている。精神医療の専門家の男が、「監禁や誘拐に巻き込まれた被害者は、犯人に対して同情や共感、または依存することがある」と語っていた。その感情は極限状態の中、犯人と長い間同じ空間を共有すると生まれるもので、テレビでは一例として、銀行での人質立てこもり事件を挙げていた。犯人は全員逮捕されて、人質は無事に保護された。しかし、人質は警察の調べに対してなぜか非協力的な発言をして、犯人の肩を持つような態度を取った。これはストックホルム症候群の典型的な症状らしく、一種の防御反応だそうだ。

「そんな顔しないでよ、千景」知らぬ間に不安感が表情に出ていたらしい。

「あ、ごめんね。色々と考えちゃって……」

「私のことはいいからさ、彼氏の心配もしてあげなよ」大人びた表情が崩れて、悪巧みを思いついた子どものような顔になっている。

「彼氏って?」

「誤魔化さないでよ、藤原君に決まってるじゃない」

「だから、あいつとはただの幼なじみで……」

「もし会う機会があったら、彼にありがとうって伝えておいてね」私の言葉を遮るようにして、日香里が言った。「頭から血を流しながら先生を呼んできてくれた、私たちのヒーローなんだから」


 日香里の入院する病院を出て、バスを乗り継いで帰路につくと、焼けた銅のような色の夕日がマンションの陰に隠れようとしていた。日香里の様子などを家族に話し、一緒に夕飯を食べて、脇腹の痣に響かないように注意して風呂に入った。濡れた髪をバスタオルで拭きながら自室に戻り、机の上の時計を見ると、午後八時半を少し過ぎたところだった。

 ベッドの上に座って、私は自分の右手を見た。用務員の目を刺したときの感触が、未だにべったりと残っているような気がした。しかし、人を傷つけてしまったというのに、罪悪感や良心の呵責(かしゃく)は全く無かった。

 人を恨むのにもエネルギーがいるという、日香里の言葉を思い出す。確かに、怒ったり悲しんだり恨んだり、感情を発散させるのには多大なエネルギーを要するのだ。そして、私たちは肉体的にも精神的にも疲れていて、長い休息が必要だった。私は急に自分がひどく老けてしまったように思えた。

 屋上で用務員と戦って、私が気を失っていたとき、啓ちゃんは頭を押さえたまま、一階まで歩いていたらしい。デッキブラシで頭を殴られて倒れていたが、途中で目を覚まし、死力を尽くして立ち上がったそうだ。流血した教え子が職員室に飛び込んできて、後藤先生は大層驚いただろう。啓ちゃんの話を聞いた先生は屋上まで駆け上がり、コンクリートの床で伸びている用務員と私たちの姿を見て、すぐさま警察に通報したそうだ。

 病院で手当を受けてから、私は警察の事情聴取を受けた。簡単な調書を取られただけで済んだが、それでも数時間かかり、非常に億劫(おっくう)だった。キーホルダーで人を刺したことについて話すときは、緊張で顔がこわばったが、十分に正当防衛が認められるだろうという刑事の話に胸を撫で下ろした。

 用務員は逮捕されて、現在は拘置所に収監されているそうだ。新聞やテレビの報道でちらりと見聞きしただけだが、男は意味不明な供述を繰り返しているらしい。今頃、夏休みの学校はマスコミの対応に追われているのだろうか……。


 腹筋にあまり力を入れないように気を配りながら、私はベッドから立ち上がった。机の上の携帯電話を手に取り、電話帳の一覧から啓ちゃんの名前を探す。この時間なら彼はまだ起きているはずだ。

 あの事件以来、彼とはほとんど話をしていなかった。今は彼の声が聞きたくて仕方がなかった。電話が繋がったら、まず最初に「ありがとう」と言おう。そして他愛のない話をしてから、彼とどこかで会う約束をしよう。(おり)の中を歩きまわる獣のように、私は部屋をうろうろしながら、鳴り続ける呼び出しを聞いていた。

 閉じている部屋のカーテンを何気なく捲り、私は外に目をやった。風がほとんど吹いていないため、昼間の暑さの残滓(ざんし)が街全体に重たくのしかかっている。家の明かりが点々と(とも)り、上を向くと、(まばゆ)い光を放つ満月が顔を出していた。その月を見た瞬間、私の手から携帯電話が滑り落ちていた。

 赤い月が空に浮かんでいた。



<了>

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