side-B 4 失望
「おい、開いてるぞ……」啓ちゃんが私の横で驚きの声を上げた。外からの生暖かい風が校内に流れ込み、二人の髪とシャツを弄んだ。
雲のほころびから覗く満月が、コンクリートの屋上を照らしている。吹き付ける強風に目を細めていると、屋上の周りを囲むフェンスが見えた。そして月光に浮かび上がるように、屋上の中央で立っている人影が見えた。
「……誰なの?」声を震わせながら、私は一歩ずつ近づいた。緊張で全身の筋肉がこわばり、歩くたびにぎちぎちと音を立てるようだった。耳元を過ぎる風の音に混じって、何か蜂の羽音のようなものが聞こえてくる。携帯電話の光を前方に向けると、横一列に並ぶ人形があり、その二メートルほど後ろに作業着姿の男が立っていた。
「よく来たな、勇者よ」豚が鳴くような太い声で、男が言った。「私の部下を可愛がってくれたようだな。だが、ここにいる悪魔は一味違うぞ」
「何を言っているんだ、あの人……」啓ちゃんが耳元で囁いた。「俺が行くから、千景は俺の後ろにいて」
携帯電話の明かりを男に向けたまま、啓ちゃんが前進する。男の元へ接近するに連れて、蜂の羽音が大きくなっていく。男の口角に白い泡が付着しており、それを見た私はこの羽音の正体が男の荒い息づかいだと気が付き、嫌悪感が虫になって背中を這うような感覚に襲われた。
作業着の男の前に転がる人形は、キツネや羊などの生き物を象っていた。昨日学校の中で私が発見した人形と、同じ類のものだと直感した。
「おい、そこで何してる」人形の一歩手前まで来て、啓ちゃんが声を張り上げた。語尾がわずかに震えているが、力強い言い方だった。「……あんた、もしかして用務員の人か?」
啓ちゃんの言葉にハッとして、私は男の姿に目を向けた。汚れたアースグリーンの作業着……枯れた草地を思わせる薄い頭髪……ごわごわした皮膚にシワの目立つ顔……教室やトイレの前でたびたびすれ違った、学校用務員のおじさんだった。手にはデッキブラシを持ち、血走った双眸をこちらに向けている。
「何をしてるんだ、あんた……」青ざめた顔で、啓ちゃんが用務員に声をかけた。
「どうした、怖気づいたか」こちらの問いかけを無視して、薄い微笑みを浮かべた用務員が喋った。「まあ、無理もない。ここにいるのは我が部下の中でも精鋭ばかりだ……マモンにアスモデウス、ベルゼブブ……」
「何をしてるかと、訊いているんだ!」啓ちゃんが怒気を帯びた声を上げ、足元の人形を蹴散らした。人形はコンクリートの上を二、三度跳ねて、風に巻き上げられながら、身体をバラバラにさせた。不敵な笑みを浮かべていた用務員の顔が、奇妙に引きつったまま、まるで石化したみたいに固まっている。
「様子が変だよ」啓ちゃんのシャツの裾を掴みながら耳打ちした。
「そうだな。たぶん……酔っ払っているか、気が違ってるんだろう」
「一旦、職員室に戻らない?」用務員の姿を視界に捉えたまま、小声で言った。「後藤先生に報告しようよ。ここは犬も日香里もいなかったんだし……」
顎を伝う汗を拭って、啓ちゃんが頷いた。じりじりと後退して、屋上のドアまで戻ろうとした私の耳に、奇怪な音がじっとりとした風に乗って届けられた。それは強力な磁石のように、私の意識を否が応でも惹きつけた。
「ねえ、何か聞こえない?」
「何かって……風の音しかしないよ」
「後ろの方で、鉄板を叩いてるみたいな音がするよ。ほら、あの貯水槽のあたりで……」
背後には建付けの悪いドアがぽっかりと口を開けていた。ドアの穴を穿たれた塔屋は空へと突き出していて、巨大な墓石に見える。ドアの横には鉄製の梯子が架かっており、梯子を登りきった先には、月明かりに照らされた高架水槽があって、その丸みが塔屋の隅の方でちらりと見えた。そして高架水槽の辺りから、車の排気音や街のざわめきとはあきらかに乖離した、金属を打ち付けるような鈍い音が聞こえていた。
「……あそこに、何かいるのかな」後ろを見ながら、私は言った。「私、登って見てみるよ」
私は踵を返して、梯子に手をかけた。刹那、男が大気を震動させるほどの大声を上げた。それは声というより銅鑼の鳴りのような音で、発した言語の意味は不明瞭だが、「やめろ」というニュアンスの言葉を発したのだと推測した。
「そちらへ行ってはならぬ……」興奮のためか、肩が細かく震えている。「部下を倒したのならば、俺と戦え。我が妻、黒猫は関係ない……これは俺とお前たちの勝負だ」
「あそこに誰かいるのか」視線で高架水槽の方を指しながら、啓ちゃんが言った。
「俺と彼女は闇の契約で結ばれている……今は安らかな眠りについているよ。さあ勇者よ、戻ってこい。正々堂々、俺と拳を交えようではないか」
梯子から手を離しかけた私の顔を見て、啓ちゃんがかぶりを振った。そして啓ちゃんの唇が「イ」と「エ」の形を作った。それが「行け」という合図だと分かり、私は梯子を一気に登った。
「やめろ!」用務員が鬼の形相で走り出した。既に老齢のはずだが、全身をバネにしてこちらに飛びかかる様は、獲物を狩る猛獣の姿に似ていた。
腰を落として、啓ちゃんが用務員の前で身構えた。用務員はグッと手に力を込めると、鞭をしならせるように右手のデッキブラシを振り下ろした。啓ちゃんが体を捻ってかわし、デッキブラシがコンクリートの床を叩いた。数歩たたらを踏んだ用務員に、啓ちゃんが肩を突き出して体当たりをした。二人はもつれ合うようにして床に倒れた。背中を激しく打ち付けて呻く用務員の上に、啓ちゃんが馬乗りになって、男の両手首を掴んでいる。
「早く行け!」腹の底から湧いて出るような大声で、啓ちゃんが言った。「早く上に登るんだ!」
暗闇の中から飛んでくる啓ちゃんの声に後押しされて、私は塔屋の上を目指した。梯子を掴む手が汗で滑り、そのたびにシャツで手のひらを拭った。足元のスリッパが煩わしくて、途中で下に落とすと、風船の割れるような音がした。高さが増すに連れて、吹き抜ける風も強くなった。しかし、下方が闇で満たされていて、距離感が消失していたため、高所恐怖症の発作が起こることはなかった。
三メートル半ほどの梯子を登りきり、ポケットに入れていた携帯電話の光を高架水槽に向けた。不規則なテンポで鳴っていた鈍い音は、もう聞こえなかった。コンクリートの冷たさが靴下を通して伝わってきたが、頭から水を被ったように汗をかいていた。
高架水槽から伸びる太い給水管の根本に光を向けると、黒っぽいものが微かに動くのが見えた。近づいてみると、この学校の制服を着た女子生徒が、手錠によって左手を給水管に繋がれていた。彼女は肩まで伸びた黒髪を風に揺らしながら、糸の切れた操り人形のようにじっと俯いている。脈拍が速くなるのを感じ、私は彼女の元へ駆け出した。
「日香里!」彼女の肩を揺すり、顔を覗きこんだ。白い布で口を覆われて、蝋のように蒼白な顔をしているが、間違いなく日香里だった。首の後ろで結んである布を解くと、日香里が薄っすらと目を開けて、私の視線とぶつかった。
「千景……?」風に吹き散されてしまいそうなほどの、か細い声だった。「良かったぁ、来てくれて……下の方で声が聞こえたから、ずっとここを叩いてたの。そうしたら、意識がすうって遠くなっちゃって……」
そう言葉を漏らすと、日香里は光線が散るような寂しい笑顔を浮かべた。風の中から聞こえていたのは、日香里が給水管を殴って発生させた打撃音だったのだ。
この場所にずっと放置されていたのだろう。日香里の身体は皮脂で汚れ、雨ざらしの野良犬のようだった。右手には給水管を叩いてできた赤い跡があり、手錠で繋がれた左手首の皮膚は紫色に爛れていた。腕や足には細かい擦り傷があり、制服のシャツやスカートにはいくつか血痕があった。
胸の内から熱いものが込み上げてきた。まぶたの裏側がちりちりと燃えて、鼻の奥がつんと痺れた。故障した信号機のように、様々な思いが慌ただしく明滅する。制御できない感情は涙腺から溢れ出て、睫毛を濡らしながら頬を伝って落ちた。
「ごめんね、日香里……」彼女の右手を両の手で握りしめながら、絞り出すようにして声をかけた。
「泣かないでよ、千景」囁きながら、日香里が私の涙を指で拭う。「私は大丈夫よ……だから、そんなに泣かないで」
「早く帰ろう……早く、こんなところから逃げよう……。今すぐ助けを呼んでくるからね」
背後で靴が地面を擦る音がした。周りの空気が一瞬にして凍りついた。振り返ると、デッキブラシをからからと引きずりながら、用務員がこちらに向かって歩いていた。
「黒猫から離れるのだ、勇者よ」作業着の袖を捲った腕には、何かに引っかかれたような傷跡があった。「私の妻に手を触れるな。彼女は気が短いからな……」
「あなたの奥さんになったつもりは、ないのだけど……」消えかかったロウソクの炎のような、弱々しい声で日香里が言った。
「啓ちゃんは……啓ちゃんはどうしたの!」上擦りながらも、怒気を込めて男に言葉を投げつけた。
「啓ちゃん……?」用務員が眉間にシワを寄せる。「ああ、お前の仲間のことか。安心しろ、少しばかり痛めつけてやっただけだ。下で伸びているよ……そして勇者よ、お前も同じようにねじ伏せてやる」
用務員は空気をひっかくような呼吸音を発しながら、嘲りの表情を浮かべた。湧いてきた怒りが恐怖心を塗りつぶしていき、私は男の目を睨みつけた。だが、男と女では腕力に差がありすぎる。私は用務員の姿を視野に入れつつ、周囲に視線を走らせた。何か武器になるものはないだろうか……。
足元を見ると、自分が白い布を踏んでいるのに気づいた。それは日香里の口を拘束していたもので、唾液で濡れた跡があった。
「あなた、この学校の用務員でしょう」布の存在を気付かれないように注意しつつ、男に声をかけた。「なんでこんなことをしてるの、おじさん」
「何を訳の分からないことを……気でも狂ったか」本気で意味がわからないという風に、用務員は首を横に振った。
「それはあなたでしょう。魔王とか、悪魔とか、勇者とか、妄想の世界に逃げこんで……」
「逃げているのはお前ではないか、勇者よ」くっくっく、と喉奥を鳴らして笑い、男は切れ目なく話し続ける。「もしや仲間を倒されて、戦意を喪失したのか? 降参するなら今のうちだぞ……そうだな、俺の前で跪け。そうすれば、我が片腕として可愛がってやってもいいぞ。俺の心は大様なんだ……」
「勇者って……もしかして、私のことを言っているの」
「あの人、自分を魔王だと思い込んでいるんだよ」背後にいる日香里がそっと呟いた。「手作りの人形に向かって、よく一人で話しかけていたの……バエルとか、ベルゼブブとか名前をつけて……」
肌に粟が立つ思いだった。この男にはもはや、現実と空想を区別する能力は残されておらず、今も妄想の世界で生き続けているのだ。用務員は充血した目を向けて、赤い舌をだらりと見せている。その様子は、本当に心を魔王に乗っ取られているみたいで不気味だった。
この男は魔王として、本気で私と戦うつもりでいる。さらにこの闘いで負けることは、そのまま死を意味する……。
私はその場で膝をつき、身をかがめて、服従の格好をした。頭は下げていたが、上目遣いをすると男の汚れた靴が確認できた。
「失望したぞ……」邪気が臭ってきそうなほどの、男の深いため息が聞こえた。「心の底から失望したぞ、勇者よ。お前とは良い決闘ができると思っていたんだがな、とんだ見込み違いだったようだ」
私はじっと俯いたまま、用務員の足取りを見ていた。数十センチ先に男の靴がある。そして歩みが止まったかと思うと、デッキブラシの影が縦に大きく伸びた。
「弱者に用はない。死ぬがよい」
私はポケットに手を突っ込むと、手にした携帯電話を男の顔面めがけて投げつけた。不意を突かれた用務員はとっさに手で防いだが、後ろに数歩下がって怯んだ。
足元の白い布を拾うと、私はクラウチングスタートの姿勢から一気に走り出し、男の背後に回った。そして捻った布を男の首に巻きつけて、布の両端を握ったまま、背負投のような体勢で身体を思い切り地面に沈めた。
用務員は詰まりかけた下水管のような、くぐもった声を上げた。肩を左右に激しく揺らし、自分の太ももを叩いている男は、まるで各パーツが別々の動きをする玩具のようだった。私は手が引きちぎれそうなほど、体重をありったけ込めて、男の首を絞め上げた。時間の流れがひどくゆっくりに感じて、早く倒れてくれと願いながら、奥歯を食いしばって男の首を絞めた。
男の身体が細かく痙攣し始めたのが、背中越しに伝わった。失神したのだろうかと後ろを向いたとき、引き締めていた腕の力がわずかに緩んだ。その瞬間、暴れた男の肘が脇腹にめり込んだ。内臓を手で直接握りつぶされたような衝撃に、思わず布から手を離してしまった。
「千景!」空気を裂きながら、日香里の悲痛な声が聞こえてきた。
私は地面に手を突き、口を開けて咽いだ。生理痛を何倍にも増幅させたような苦しみが襲った。吐き気が胸の辺りまでせり上がってきて、息を上手に吸うことができない。溢れ出る涙で視界が霞み、夢に落ちる寸前のように、現実感が遠ざかっていく。
「……失望した」喘息の発作に似た呼吸をしながら、男が言った。「不意打ちとは勇者らしくもない……お前には、本当に失望したぞ」
肩を掴まれた私は、男の手によって地面から無理矢理引き剥がされた。男は私の頸部をごつごつした太い指で掴むと、ゆっくりと持ち上げた。ガラス食器を棚の上段に置くような、悠然とした動作だった。
つま先が地面から離れていくと、脳に血液を送るため、心臓が猛烈な勢いで脈動し始めた。男の目はこちらを見ているが、その視線は私の顔を突き抜けた先にある虚空を眺めているようで、殺意や憎悪といった感情の発露は全く感じ取れなかった。男の腕に拳を叩きつけたり、足で身体を蹴ってみたが、首を握る男の力は変わらなかった。
濃厚な絶望感が空から落ちてきて、私の頭上に覆い被さった。悪寒が全身を走り抜けて、意識がどんどん白く濁っていった。四肢の力が抜けてだらりと垂れ下がり、ジーンズのポケットに手が触れた。硬いものにぶつかる感触が、微かにあった。
用務員はぶつぶつと呪詛のように何かを呟いていた。どうやら「失望したよ」と連呼しているらしかったが、風の音がうるさくてきちんと聞き取ることは出来なかった。ふと前方を見ると、日香里の姿がぼんやりとした視野の中に見えた。意識が遠ざかっていき、はっきりと聞こえないが、しきりに何かを叫んでいるようだった。そして彼女の瞳からは、玉のように大粒の涙が流れ落ちていた。
私は力を振り絞って、ポケットの中のキーホルダーを男の目に突き立てた。ブドウの果実にフォークを刺すような感触があり、男の喉から叫びが溢れ出た。首から手が離れて、私は地面に尻を打ちつけた。大きく息を吸うと、突然の酸素に驚いた喉が引きつり、何度か咳をした。陸に打ち上げられていた魚が急に海に戻されるとき、こういう気持ちになるのかもしれないなと、妙に冷静な頭で思った。
用務員は金切り声を上げながらよろめいた。ふらついた足が塔屋の外の、何もない地面を踏んだかと思うと、男は透明な糸を掴むように空中を掻きながら落下した。重く鈍い音がして、用務員が屋上に落下したのが分かった。
首だけを前に向けると、日香里がこちらに向かって声を上げていた。だが、フル稼働中の工場の中にいるみたいに、風の音が絶え間なくびゅうびゅうと鳴っていて、日香里の言葉は耳まで届かなかった。私の視界は徐々に霞んでいき、やがて暗転した。