side-A 4 決戦
勇者が城内に足を踏み入れた瞬間、俺の心臓は大きく脈を打った。
目には見えなくても、気配を感じ取ることができた。息づかい……匂い……体温……そのどれもがしっかりとした輪郭を伴って、俺の五感をダイレクトに刺激する。
勇者は仲間を一人引き連れて、真っ直ぐにこちらへ向かっているようだ。たった二人で俺に挑むとは、気が違ったのだろうか、それとも余裕の現れなのだろうか。どちらにしろ、俺は全力で奴らを叩き潰すだけだ。
今、階段を上がって二階の踊り場に足をかけているらしい。俺と勇者の距離が縮まり、彼らの周りを漂う空気をありありと感じることが出来る。勇者が足を一歩踏み出すたびに風の流れが変わり、空気の擦り合う音すら聞こえてきそうだ。
俺は玉座に座りながら、得も言われぬ愉悦を味わっていた。それは小動物が罠にかかるのをじっと眺めている捕食者の気持ちに似ていた。勇者たちは慎重な足取りで、こちらに近づいている。しかし、既にここは俺の城の中なのだ。飢えた狼の巣に、好奇心で侵入してきた兎……。巣穴の奥で息を殺し、獲物を待ち構える狼は、おそらくこんな心持ちなのだろう。俺は痙攣のようにこみ上げてくる笑いを必死に堪え、陶酔感を味わうように唇を舌で舐めた。
勇者がこちらに向かって歩くたび、床と靴が擦れて音が鳴っている。その足音と共鳴するように、俺の鼓動音も激しくなり、血流が加速していく。身体は熱を帯びていき、興奮が火花になって目の裏側でちらついている。
俺は椅子から立ち上がると、大理石の階段を降りてどっしりとした姿勢で立った。勇者を迎え入れるのに、座ったままでは無礼だと思ったからだ。魔王には魔王なりの、闘いの哲学というものがある。不意打ちや奇襲、あまりに人を見下すような下品な行動は、俺のプライドが許さなかった。殺し合いというのは、紳士的でなければならないと俺は思う。正々堂々と戦うからこそ、勝負というのは気品があり、美しいのだ。
勇者の到来を待っている俺の目の前に突然、生き残っていた部下の悪魔たちが音もなく現れた。定規で線を引いたように横一列に立ち、こちらに背中を向けている。
「どうした、直に勇者がこちらへ来るぞ」
「魔王さま、我々に奴の相手をさせてはもらえないでしょうか」列の真ん中で立っているベルゼブブが言った。その背中はぴんと張り、覚悟を決めた者特有の威厳が感じられた。
「……止めても聞かぬだろう、お前たちは」
申し訳ありませんと言って、部下は攻撃の体勢に入った。きかん坊な部下ばかりで、俺は思わずやれやれと呟いてしまう。しかし、彼らと共に勇者と戦える喜びが、胸の内に広がっていくのが分かり、俺は声を殺して笑った。
勇者がドアの前にいる気配を察知して、俺は大きく息を吐いた。奴らの汗の臭いが鼻孔をくすぐり、緊張が弦になってきつく張り詰めていく。床を見ると、月明かりによって作られた俺の影が、絨毯の上で揺れていた。それは俺の中の邪悪な心が形になって、この世に現出しているかのようだった。開け放った窓からは木々の葉と葉が擦れ合う音が聞こえ、ねっとりとした熱い風が吹き込んでいる。勇者と魔王の決戦の舞台として、この王の間ほどふさわしいものはないだろう。
ドアが少しずつ動き始めた。ドアは首を絞められた鶏の鳴き声のような音を立てながら開き、やがて勇者とその仲間が姿を現した。