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side-B 3 侵入

 翌日、数学の問題集に悪戦苦闘していると、携帯電話が鳴った。机の上のデジタル時計を見ると午後六時半になろうとしていた。時計の横には金具の外れたキーホルダーが置いてあり、見るたびに悲しい気持ちが湧いてきた。

 携帯の画面には、啓ちゃんの名前が表示されていた。

「もしもし?」

「すまん、遅くなって。岸田の奴、朝から野球の練習があったみたいでさ。夕方にやっと連絡がついて、話ができたよ」

「本当に? ごめんね、面倒かけちゃって」

 別に良いよ、と啓ちゃんは笑った。「岸田、例の事件の一部始終を見ていたらしいんだ。朝、野球部の練習中に、校内へ入っていくクウちゃんを見たんだって」

「クウちゃんって、犬の名前?」

「クウって声で鳴くから、クウちゃんなんだってさ。柴犬だからシバちゃんって呼ぶ人もいたらしいよ」

 どっちにしろ安直だよな、と啓ちゃんが言った。そうね、と微笑みを唇の端に()めて応えた。「クウちゃんは、学校で飼われていたのかな」

「半分は野良、半分はペットという状態だったらしい。餌をやるのは禁止されていたけど、よく塀を飛び越えて校庭に入り込んでいたから、休み時間になると一緒に走って遊んでたって言ってたよ」

 生徒から可愛がられていた、という新聞記事の情報は本当だったみたいだ。そして啓ちゃんは、友人から聞いた話を訥々(とつとつ)と語り始めた。


 午前七時半ごろ、岸田はグラウンドを走っていた。夏休みの間も、野球部はほぼ毎日練習があったらしい。ランニングが二周目に差し掛かった時、グラウンドの片隅で動く影があり、よく見るとそれはクウちゃんだった。クウちゃんが校内を散歩するのはいつものことなので、岸田を始めとした野球部員たちは犬に軽く手を振って走り続けた。クウちゃんは岸田たちを一瞥してからグラウンドを横切り、校舎の下駄箱へ向かった。普段はしっかり閉じている下駄箱の前のドアが、その日は何故か片側が開きっぱなしだった。泥落としの匂いを嗅ぎ、校内に入っていくクウちゃんの後ろ姿を、岸田は覚えていたそうだ。

「クウちゃんが校内に入ることは全然なかったから、印象に残っていたみたいだ。朝練が終わってから更衣室に行ったんたけど、クウちゃんは見当たらなかったらしい」

 その時には既に、クウちゃんは屋上で悲惨な最期を遂げていたのだろう。身体の中に泥を詰められたような、不快な気分になった。

「夏休みだったから、そんな大騒ぎにはならなかったのね」

「ただ、何となく変な雰囲気は感じていたってさ。次の日の練習のとき、人伝いに事件のことを聞いて驚いたって言っていたよ。クウちゃん、昨日まで元気だったのにって……」

 悲哀の空気が、電話越しに伝わってきた。「犯人は見つかっていないの?」

「警察が、その時校内にいた人に調書を取ったけど、犯人は分からずじまい。でも、色々とおかしいと思わないか?」

「犬をバラバラにした人の思考回路が?」

 それもあるけど、と同調して啓ちゃんが言った。「一番奇妙なのは、わざわざ屋上に犬の死体を並べたってことだ。ただ殺すだけなら、屋上まで持っていく必要はないだろ。もちろん、バラバラにする必要もないよ、普通の人間がやることじゃない……」

 普段は温厚な啓ちゃんの口調に、憤怒の気配が感じられる。「ねえ、屋上の鍵って、普通閉まっているんじゃないの?」

「岸田の話だと、夏休みの間は屋上にプランターを設置して、ヘチマを育てていたんだってさ。緑化運動の一環でね。水やり当番の生徒の出入りがあるから、屋上のドアの鍵はかかっていなかったらしい。校長が見回りをしていなかったら、生徒の誰かが発見していたかもしれなかったって……」

 心臓の周りに氷の膜が張っていくような、薄ら寒さを感じた。「校長先生には気の毒だけど、生徒がトラウマにならなかったのは、不幸中の幸いかもね」

「そうだな。ただ、事件の内容が内容だろ? 翌年の入学志願者数は激減したらしいよ。転勤したり、退職した先生や職員もいたみたい」

「そうなんだ……」犬のバラバラ死体があった学校に近寄りたくないという心理は、至極(しごく)当然のものかもしれない。

「あと、もう一つ岸田が話していたよ。その日、学校の中に変なものがあったらしい」

「変なもの?」

「気味の悪い人形が、廊下に落ちていたんだってさ」

「……もしかしてそれって、フェルトで作られてるやつ?」

「そうだけど……なんでお前、知ってるの?」

 耳のすぐ裏側で鳴っているように、心臓の鼓動音が大きくなっていくのが分かった。私は校内で発見した人形について手短に話した。


「同じだ……」啓ちゃんのツバを飲み込む音が聞こえた。「その人形、たぶん二年前の事件のときと同じだよ。身体のパーツが(もろ)くて、不気味で、廊下や階段に落ちていて……」

「……二年前は、屋上に犬がいたけどさ」呼吸がどんどん浅く、速くなっていく。「今、私たちの高校の屋上には、何があるの……?」

 急激に体温が下がっていく感覚。つま先から血液が流れて出ていくみたいだった。携帯電話を握る手が、微かに震えていた。犬……屋上……バラバラ……人形……日香里……死体……。様々な言葉が脳裏に浮かんでくるが、それらは上手く繋がらないまま、風船のように頭の中を漂っていた。

「私、今から学校に行く」考えるよりも先に、言葉が口をついて出た。「屋上に、きっと何かがあると思う」

「俺もすぐに行くよ。マンションの前で待ってる」

 分かった、と言って私は電話を切った。汗で濡れたシャツとジャージを脱ぎ捨て、クローゼットから適当に取り出した黒のシャツとブルージーンズと靴下を身に付けた。机の上のキーホルダーを掴むと、携帯電話と一緒にポケットに突っ込み、部屋を飛び出した。今の私にとって、三日月のキーホルダーは日香里との繋がりを示す、唯一の希望の燈火(ともしび)だった。

 夕食の支度をしていた母親に「どうしたの」と声をかけられた。学校に忘れ物があると応えると、履き慣れたスニーカーに足を突っ込んで家を出た。夜の気配が濃密になってきたが、昼間の熱気が重油のように街に沈殿していて、蒸し暑かった。

 家の前の横断歩道を渡り、学校の方へ走っていると、前方で啓ちゃんがこちらに向けて手を振っていた。白地に青のストライプ入りのシャツを着て、色落ちしたジーンズを履いていた。

「千景、急ごう」こちらの目を見てから、啓ちゃんが走り出した。前方にある彼の背中に視線を向けながら、私も自分の手をきつく握りしめながら駆け出した。

 道なりに進み、交通量の少ない交差点を左に曲がった。交番にいる警察官が、(いぶか)しみながらこちらを見ていたが、無視をして走り続けた。なだらかな坂を登っていると、首や背中に汗が滲んだ。歩き慣れた通学路なのに、まるで道が果てしなく続いてるようで、焦る気持ちが胃の()に溜まっていった。

 坂道を登りきり、横断歩道を渡ると学校の正門が口を開けていた。夜の闇に沈みつつある校舎の一部にはまだ明かりが灯っていて、それは巨大な獣の目が闇の中で光っているみたいだった。紺青色の空には光芒(こうぼう)のない満月が浮かび、ふんわりと街を照らしていた。

「こんな時間でも、まだ学校には入れるんだな」額の汗を拭いながら、啓ちゃんが言った。

「でも、校舎内にはどうやって侵入するの?」荒い呼吸を整えながら尋ねた。

「職員室にはまだ先生がいるはずだ。忘れ物があるので取りに来ましたって言えばいいさ」

 門を抜けた先にある本館は、老朽化の影響で所々ヒビが入っている。本館を右に曲がり、自転車置き場の脇を抜けると、左手に職員玄関が見えた。人の気配はないが、職員室には煌々(こうこう)(あか)りが点いていた。

 職員玄関を開けようドアに手をかけたとき、ドアの向こうに人影が見えた。ひょろりとした身体の線とぼさぼさの髪で、後藤先生だと分かった。

「どうしたんですか、二人とも」ドアを開けた後藤先生が、私と啓ちゃんの顔を交互に見て言った。「夏季休業中でも、午後七時以降は立入禁止ですよ」

「すみません、校内に忘れ物をしたんです」啓ちゃんが懇願の表情で言った。

「そうなんです、すぐに取ってきますから……」切羽詰まった声色で、私は頭を下げた。

 先生は髪をかきながら、どうしたものかと悩んだ表情を浮かべた。

「……分かりました」腕組みをして、先生は嘆息した。「じゃあ、私は職員室で待ってます。戻ってきたら、声をかけてくださいね」


 外から差し込む月光と非常口の明かりによって、校舎の中は足元が見える程度には明るかった。窓は全て閉め切られていて、木の葉が揺れるほどの風もなく、肌にまとわりつくような熱気が校舎内に充満していた。

「屋上って、そういえば行ったことがなかったな」二人分のスリッパの足音が踊り場に響いている。

「勝手に生徒が入らないように、一年中鍵がかかっていたはずだよ」シャツの裾を摘んではためかせ、中に風を送った。「色々な部活の備品が置かれていて、ほとんど倉庫みたいになっていた気がする……」

 夜の学校は静かだった。廊下のあちこちに闇が溜まっていて、それが全ての音を吸収しているようだった。屋上に続く階段を上がりつつ、ツバを飲み込んだが、口の中はひどく乾いたままだった。階段には照明が無いため、私たちは携帯電話の明かりを頼りに、一歩ずつ慎重に上った。階段にはダンボールや丸められた模造紙などが乱雑に放置されていて、埃っぽい空気が漂っていた。段が上がるに連れて備品の量が増えていき、まるで私たちを屋上に上がらせないために誰かが故意に荷物を積んでいるように思えた。

 私はドアノブに手をかけて、神経の死んだ奥歯のようにぐらぐらと揺れるドアノブを回し、ひと押しした。施錠されていて開かないと踏んでいた私の意に反して、ドアは悲鳴を上げながらゆっくりと開いた。

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