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side-A 3 覚悟

 俺は長い廊下に一人で立っていた。周囲の景色は色が希薄で、ぼんやりとしていたが、ここが学校であることは分かった。木の廊下はハリボテで、若いかさぶたの下にできた皮膚のように柔らかく、床下から液体が染み出ている。廊下の先を見ると、暗闇が口を開けていて、全神経がその闇に引き寄せられてしまう。

 あの暗闇が俺の目指すべき場所だと悟った瞬間、背後からガラスが粉々に砕けてしまうほどの絶叫が轟いだ。俺にはそれが何か恐ろしい化け物の咆哮(ほうこう)に聞こえて、とっさの判断で前方に走りだした。俺が駆け出すと同時に、化け物がこちらの存在に気づき、猛進してくるのが気配で分かった。

 全速力で進んでいるつもりだったが、床板がたわんでいるせいで踏ん張りが効かず、上手く走れない。さらに机や椅子やロッカーが急に目の前にせり出てきて、避けようとするたびに足がもつれてスピードが落ちてしまう。化け物が地を蹴りあげてこちらに向かってくる息遣いが、俺の呼吸音と呼応して大きくなり、焦燥感がさらに足取りを鈍らせた。

 どんなに走り続けても、前方にある暗闇は近づいて来なかった。それどころか、闇はどんどん自分から遠ざかっていくように思えた。化け物の(うな)り声が背後まで近づき、気圧された俺は机に足がぶつかり、バランスを崩して転倒した。床に手をついて身体を起こし、後ろを振り返ろうとした瞬間、俺は悲鳴を上げながら目を覚ました。


 寝室が闇で染められていたせいで、俺はまだ自分が夢の中にいるように感じ、緊張の面持ちであたりを見回した。部屋はマリアナ海溝の底のように静かで、自分の荒い息遣いだけが聞こえる。窓から差し込む淡い月光が、ここが魔王城であることを知らせていた。

 落ち着きを取り戻してくると、それと反比例するように、先ほど見た夢の内容が記憶の器からこぼれ落ちていった。何だか懐かしい場所にいたような気がした。そして何者かに追いかけられていた気がするが、夢の内容はすっかり思い出せなくなっていた。ただし、夢の中で味わった恐怖感だけは、呪いのように皮膚に張り付いていた。

 口腔(こうこう)内が粘つき、不快だった。隣室で寝ている黒猫を起こさないように、俺は息を潜めて厨房に向かった。静かにドアを開け、回廊を歩いていると、何やら違和感を覚えた。回廊の先の方で、月光に照らされている大きな土嚢(どのう)があったのだ。なんであんなところに土嚢があるのだろう、誰かが城内で使うために運び出して、置き忘れたのだろうか。厨房の前を通り過ぎ、階段へ向かうと、その土嚢には顔が付いていた。

 部下のバエルが、全身を真っ二つにされて息絶えていた。

 苦悶(くもん)の仮面を被ったまま、バエルは上半身を壁にもたれさせていた。雑巾をきつく絞るように腰が捻れて、腰椎が断ち切られており、断面からは血管や神経の束がだらりと垂れている。絨毯にはどす黒い血が広がり、抜け落ちたバエルの羽がその上に積もっていた。上体から少し離れたところに下半身があり、つま先を階段に向けたまま倒れている。


「どうしたことだ、これは……」

 誰かに聞こえてしまうのではないかと思うほど、自分の心臓の鼓動音がうるさかった。悪寒のような嫌な気配が足元から這い上がってくる。俺は配置している警備兵の無事を確認するため、急いで階段を降り、城の中を見まわった。だが、残念なことに、全ての部下が無残な亡骸を晒していた。

 手足を切断されて絶命している者や、顔の肉をえぐり取られた者、口の中に砂を詰め込まれて、声にならない絶叫を上げたまま死んでいる者もいた。グロテスクな光景を見ても、俺の頭は冷静な思考力を失ってはいなかった。こんなことをする人物は、一人しか考えられない。

 勇者だ、と俺は部下の死骸を見ながら確信した。俺の寝ている隙を狙って、勇者が城に入り込んだのだ。そして部下たちを打ち倒し、経験値を得て、俺の寝室の階層の悪魔すら撃破してしまった。今この城に勇者の気配がないのは、おそらく体力を回復するために一旦エンデの街へ戻っているのだろう。万全の状態で俺との対決に挑もうというわけだ。

 俺の中で沸々と怒りが湧いてくる。部下を惨殺されたことに対する怒りではない。ベッドの上で呑気(のんき)に眠ったまま、部下たちをみすみす殺させてしまった、己に対する憎悪だ。もしかして、俺が夢の中で追いかけられていたのは、勇者なんていつ来ても大丈夫だろうという、自分の中の甘えた心だったのではないだろうか?

 喉の奥を(つぶ)すようにして、俺は忍び笑いを漏らした。自分の影に追われる夢を見て飛び起きるなんて、そんな滑稽な話があるだろうか。まるで自らのしっぽを捕まえようとして、地べたをぐるぐると周る犬みたいではないか。俺はこの世界で魔王になり、何者も寄せ付けない強大な力を得たが、心の中にはまだ人間としての脆弱(ぜいじゃく)さがあった。誰かを殺めるようなことはしたくないし、出来ることなら穏便に事が運べば良いと思っていた。だが、部下を殺された今の俺に、そんな甘えた心は必要ない。


 俺は厨房に入り、(かめ)(ふた)を開けて水を一杯飲んだ。身体の全てがクリーンな状態になり、落ち着いていった。しかし、心の奥底では勇者を倒したいという闘志が燃えていた。勇者と対峙(たいじ)した瞬間、固い意志はより激しく燃え盛り、俺の中にある人間の心を真っ黒な灰にしてしまうだろう。

「いよいよ、か……」

 厨房を出ると、黒猫の寝ている部屋のドアをわずかに開けて、中を覗きこんだ。黒猫は寝息を立てていて、暗闇の中でも彼女の肌は陽光を受けた夏野菜のように張りがあった。俺は彼女を起こさないように近づき、頬にそっと口づけをした。黒猫はわずかに身動ぎしたが、気持ちよさそうに寝息を立てていた。

 俺は玉座の間に行き、豪奢な椅子に座った。魔王になったときから、既に覚悟はできていたつもりだ。もしも俺が人間の心を失い、完全な魔王になってしまっても、黒猫は側に居てくれるだろうか。それとも、かぶりを振って拒絶するだろうか。どちらにしても、彼女が生き続けてくれるのなら、俺はこの生命を失うことさえ惜しくはない。

 窓の外に見える赤い満月は、一片の過不足もない円形を描いて輝いていた。その光はまるで勇者との対決を祝福しているようだと思い、俺は唇を(ゆが)めて笑った。

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