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side-A 2 予感

 翌日、太陽が西の山へ傾き始めた頃、嫁の黒猫と食事を共にした。寝ぼけ眼でテソーの煮物を食べている彼女の顔は蠱惑(こわく)的で、なんというか心にぐっとくるものがあるね。

「……何よ」テソーの肉を咀嚼(そしゃく)していた黒猫がこちらを見て、低いトーンで言った。

「いや、美味そうに食べるなと思って」

「ふんっ」鼻を鳴らして視線を逸し、食事に戻ってしまった。つっけんどんな性格も、彼女の魅力の一つだと俺は思っている。

 洗い場で食器を片付けると、俺は支度をして城門を開けた。お供いたしましょうか、という部下の提案を、俺はやんわりと退けた。部下を引き連れて街を散策するのはいささか目立つし、住人に無用な警戒心を抱かせるのは得策ではないだろう。

 岩だらけの荒れた大地を進むと、次第に草原が増えてきて、山麓にエンデの町並みが見えた。俺は「メタモル」と唱えて、変身の魔法を自分に施し、街に踏み入った。


 街はひっそりとしていて、深い海の底みたいだった。木製の住宅と布張りの商店が建て込んでいて、中央通りには石造りの宿屋や魔法訓練所があった。寂れている感じはなく、小声で互いの秘密を打ち明け合うような密やかさな雰囲気が漂っている。

「旅のお方かな」

 小柄な女が声をかけてきた。森から帰ってくる途中らしく、左手に下げた麻袋の口から山菜が出ている。

「はい、学者の端くれをやっています」

「いらっしゃい。エルフの森の探索かい、それとも、あのお城の調査かい」女は整った顔立ちで、善良そうな感じがした。

「森の薬草を調べに、北の街から来たのです。山から降りてくる風の影響で、この街の森では様々な種子や菌が育まれていると聞きまして」

「薬草なら、北西の森に行くと良いよ。湿潤な土地だから色々な植物が自生してるんだ」華やか(ちょう)が羽ばたくような明るい笑みを浮かべて、女は言った。「ただし、探索は明日にするんだね。夜は野犬やテソーが出るから」

「そうなんですか、気をつけます」

「この時間はまだ大丈夫だけどね。日が落ちると、この街の人はみんな家に(こも)ってしまうんだ。昼間はもっと(にぎ)やかなんだよ、ここは」

 宿屋の場所を教えてもらうと、俺は女と別れた。変装の魔法のため、女に違和感を抱かれることはなかった。今の俺は、禍々しい体躯(たいく)に黒い羽を広げる悪魔ではなく、浅黒い肌をした中肉中背の学者に見えるはずだ。


 変身の魔法はそんなに難しいものではない。豊かな想像力さえあれば容易にできる。髪型や顔の造形、骨格、肌の色、筋肉や毛量など、容姿を精細(せいさい)にイメージして、魔法を詠唱する。すると身体がもぞもぞと(うごめ)き、独特の音がする。首や手の指をパキパキと鳴らす人がいるが、あれに似た音が身体の節々で一斉に鳴り出すのだ。骨が(きし)み、筋肉が変形し、皮膚が伸び縮みして、二、三分経つとすっかり別人になっている。

 恥ずかしながら、初めてこの魔法を習得したとき、俺は好奇心に駆られて女性への変身を試みたことがある。俺が人間だった頃に雑誌で見た、グラビアの女の顔と身体を入念に思い浮かべて、呪文を口にした。顔はその女のものになったが、身体の肝心な部分はマネキンのようで、合成ゴムに似た質感だった。想像の及ばない部位は不完全なものになると知り、俺は激しく落胆した。

 話が脱線してしまった。空想家なら――人間は誰しも空想家だけど――簡単なこの魔法だが、万能というわけではない。目抜き通りを歩いていると、俺を注視して避ける者がいるのだ。後ろに撫で付けた長い髪、牡蠣(かき)のような(とが)った耳、引き締まった足の筋肉……エルフだ。どんなに上手く変身したつもりでも、彼らは俺と目が合うとあからさまに顔をこわばらせて、道の端に寄る。こそこそと会話をする者もいれば、腰につけた短刀に手をかける者もいた。

 理由は分からないが、彼らは俺の変身を見破っているらしかった。何度この街に来ても、このエルフの反応は変わらないので、偶然というわけではなさそうだ。野生の勘というやつが働いているのかもしれないな。

 エルフたちの視線から逃れるため、俺は中央通りを外れて森と反対側の方に向かった。一膳飯屋の前で立ち話をしている集団の前を通り、農作業をする夫婦と軽く会釈をして、露天商で(いのしし)の肉と山菜を買った。いつの間にか、熟した(あんず)のような夕日が山の頂に沈みかけている。エンデの街を出て城の前に辿り着く頃には、あたりはどっぷりと闇に沈み、赤い月が頭上で輝いていた。


 街を散策した充足感を噛み締めながら城に帰ってきた俺は、階段を上がっていた。三階の階段に差しかかったとき、左腕の古傷に痛みが走った。俺は危うく食材の入った袋を落としそうになった。

 俺は立ち止まり、呼吸を整えてから腕の傷跡を見た。傷の周りの皮膚が引きつり、白っぽく変色している。俺がまだ魔王として未熟だったとき、三つ首の敵に爪で引っかかれてできたものだ。あの頃は俺もまだ未熟で、(すき)を突かれて襲われた。腕を負傷しながらも何とか倒したが、この傷跡は治癒魔法を使っても消えることはない。

 なぜ今になって、この古傷が痛むのだろう。何か良からぬことの前触れなのだろうか? 身体の内側で、不安感が少しずつ膨らんでいった。

 俺は回廊の一角にある木製の腰掛けに荷物を置いた。親指と中指をパチンと弾くと、乾いた小枝を折るような音がした。この合図により、部下の一人が私の元へ瞬時に現れるのだ。

「お呼びですか、ご主人様」

「ひえっ」 

 耳元で突然囁かれ、俺は情けない声を出してしまった。後ろを向くと、部下のバエルが立っていた。なんで耳元で声をかけるんだ、わざとやってるだろ、お前。

 内心の動揺を誤魔化(ごまか)すように、俺は咳払(せきばら)いをしてからバエルに指示を出した。

「城内の警備を強化してほしい。今の警備兵に加えて、城門に四名、裏口に一名、各階の回廊に二名ずつ、中庭に一名、それぞれ配置してくれ」

「かしこまりました」

 しわがれた声で頭を下げると、バエルは闇に溶けるように姿を消した。何の確証もなく警備を強化したのは、少々過剰防衛かもしれないが、用心するに越したことはないだろう。

 えっちらおっちらと荷物を持って階段を上がり、厨房(ちゅうぼう)のテーブルに夕飯の食材を並べた。テーブルの傍らには口を(ひも)で固く結わえた袋がある。袋の中には、今朝調理をしたテソーの皮と毛と骨が入っているのだ。そのまま放置しても問題はないが、見ていて良い気分になるものではないので、ゴミが出たときはいつも俺が袋に詰めている。

 黒猫のいる寝室に向かい、静かにドアを開けた。部屋の左側には化粧台や絵画、ヒュプノスの像が置かれ、右奥には天蓋付きのベッドがある。ベッドに近づくと、溶かしたガラスをすっと伸ばしたような嫁の脚が見えた。顔を覗き込むと、よだれを垂らして眠っている。

「おい黒猫、飯の時間だぞ」

「うにゅ……」

 寝ぼけている黒猫の肩を(つか)み、軽く揺り動かした。華奢(きゃしゃ)な肩は俺の手の中にすっぽりと包み込まれてしまう。何度か声をかけると、彼女はゆっくりと身体を起こした。

「うーん、おはよう……」

 目を擦りながら、黒猫は小さな欠伸をした。猫耳を軽く垂らしている彼女の無垢(むく)な様子は、俺の中で生まれた悪い予感の霧を晴らしてくれた。

 そろそろ夕飯だぞ、と黒猫に告げると、俺は寝室を出た。古傷の(うず)きはすっかり収まっていた。久しぶりに街へ出たせいで、神経が過敏になっているのかもしれない。魔王がそう安々と外出するものじゃないな、と俺は思った。

「数日経過して何事も無ければ、警備の数を減らそう」

 そんなことを一人で呟きながら、俺は厨房に向かい、夕食の支度に取りかかった。

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