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side-B 1 決意

 親友が行方不明になって、今日で三日が経った。何度思い返しても、予兆のようなものは全く無かった。北嶋日香里(きたじまひかり)が失踪した日、私は朝のホームルームの前に、彼女と何気ない会話をしていた。昨日見たテレビの感想とか、数学の小テストの点数が悲惨だったとか、用務員のおじさんが気持ち悪いだとか、夏休みの予定はどうしようとか、本当に瑣末(さまつ)な内容の話だった。

 昼休みになると二人で机をくっつけて、向かい合うようにして座った。私は母の作った弁当を、日香里は売店で買ったサンドイッチを食べていた。

千景(ちかげ)、再来週の日曜日は空いてる?」箸の先でウインナーをつついていると、彼女が尋ねてきた。

 暇だよ、と私は一呼吸置く間もなく応えた。八月の半ばに家族と旅行をする以外、特に目立った予定は無かった。

「なに、どこか遊びに行くの」ウインナーを口に運びながら、私は訊いた。

「ライブのチケットが手に入ったんだけど、行かない?」肩にかかった黒髪が揺れて、細い首筋が見えた。

「本当? 誰のライブなの。もしかして、昨日話していたバンド?」

「そうよ。三人組で、ベースがおかっぱ頭の女の子のね」日香里が(かばん)のポケットから袋を取り出した。そして中に入っていたチケットを一枚、私に手渡した。

 ありがとうと言って、私は感謝の意を表した。彼女は「チケット代は後日でいいから」と微笑んだ。豆電球がそっと灯るような、温かみのある笑顔だった。

 日香里は鞄の中から、表紙に(うさぎ)のキャラクターの描かれた手帳とペンを取り出して、何かを書き込み始めた。手帳のカレンダーに予定を書き込んでいるのだろうと思った。日香里の鞄の持ち手に付いたキーホルダーが、窓から差し込む陽光を受けて輝いていた。


 私と日香里は日本のロックバンドが好きだった。邦楽のロックは幅広く好んでいるが、特に「LUNA BLOOD」というバンドがお気に入りで、日香里と一緒にライブ会場へ足を運んだりした。三日月の形のキーホルダーは、去年の夏に二人で「LUNA BLOOD」のライブに行ったとき、購入したものだった。

 私は机の横に掛かっている、自分の鞄をちらりと見た。合皮の鞄の持ち手には、日香里とお揃いのキーホルダーがぶら下がっていた。

 昼食を終えて、机を元の位置に戻した。日香里は「ちょっとトイレに行ってくる」と言ってこちらに手を振り、静かに教室を出た。彼女の背中を見送ってから、私は次の授業の教科書と筆箱を机に並べた。数分後にチャイムが鳴り、日本史の先生が教室に入ってきたが、日香里は戻って来ず、そのまま授業が始まった。体調を崩して、保健室で寝ているのだろうか。そう思って、放課後に保健室へ行ったのだが、日香里という女子生徒は来ていないと先生は話した。不安感を抱えたまま、私は図書室へ歩みを進めた。

 図書委員の仕事をしている合間にも、私は携帯電話で彼女に連絡をした。メールの返信はなく、電話は繋がらなかった。夕方になり、図書室の鍵を閉めて、私は帰路についた。

 そして、そのまま彼女は姿を消してしまった。失踪の気配を匂わせること無く、まるで空気に溶けるように、彼女はいなくなってしまった。

 二日後には全校集会が開かれた。日香里の行方が分からなくなり、警察が学校周辺を捜索していることが、担任の後藤先生の口から伝えられた。生徒たちの間で広がっていくどよめきは、耳の中に水が入ってしまったみたいに不鮮明で、曖昧に聞こえた。

 次の日から、パトカーや警察官の姿を頻繁に見かけるようになった。また、職員室の前を通ったとき、半開きのドアから、後藤先生と刑事らしき小太りの男が話しているの見た。

 日香里の背中を見送ってから今に至るまでの自分の生活を、私は上手く思い出すことができなかった。私の頭の中には記憶の棚があり、その期間の引き出しだけが、どこか私の手の及ばないところへ持ち出されてしまったみたいだった。

 ただ、何か陰鬱とした雰囲気が学校を漂っている感じは伝わっていた。廊下で立ち話をしている生徒たちの口から、家出、駆け落ち、監禁という言葉が吐き出されているのを、何度か耳にした。一学期が終わり、あと数日で高校二年生の夏休みが始まるというのに、もやもやとした不安感が生徒たちの間で広まっていた。


 チャイムの音が聞こえた。回想によって深く沈んでいた私の意識は、その音によって急速に浮上し、現実に立ち返った。教室の喧騒(けんそう)(せみ)の声が急に戻ってきて、騒々しかった。額の汗を手で拭い、私は椅子に座ったままあたりを見回した。後藤先生が何か話をしていたらしく、黒板には夏休みの宿題の内容や注意事項などが書かれていた。注意事項の一番上には[不審者には近寄らないこと]と大きな字で記されていた。

 クラスメイトは三々五々、教室から出ていった。私は携帯電話の発信履歴を見て、日香里の番号に電話をかけた。電話は繋がらず、私は深いため息を付いて電話を切った。

 窓の外を見ると、二羽のカラスが上空を旋回していた。それはなにか不吉な予感を暗示しているように思えた。私はかぶりを振って、教科書やプリントを鞄に詰めると、椅子から立ち上がった。教室の出口へ向き直ったとき、誰かに声をかけられた。

「千景、大丈夫か?」啓ちゃんがこちらの顔を見ながら言った。夏服の(そで)から、筋肉のほどよく付いた細い腕が伸びていた。

「……うん、大丈夫。帰ろ、啓ちゃん」

 啓ちゃんというのは、私の友人である藤原啓太郎(ふじわらけいたろう)のあだ名だ。彼とは小学校からの付き合いで、いわゆる幼なじみというやつだ。

 下駄箱で靴に履き替え、二人で並んで校門に向かうと、門扉の側に体育教師が立っていた。「先生、さようなら」と半ば事務的に挨拶すると、体育教師は白い歯を見せて「おう、さようなら、五十嵐」と快活な声で言った。

 明るい初夏の白昼の下、啓ちゃんと並んで歩いた。なだらかな坂を下り、コンビニと交番と薬局に囲まれた交差点を右に曲がった。普段通りの会話をいくつか交わしたが、油の切れかかった機械のようにぎこちないやり取りが続いた。公園の前を通り過ぎると、左手にひっそりとした四階建ての建物が見えて、そこが啓ちゃんの住むマンションだった。私の家はそこから数百メートルほど進み、横断歩道を渡った先にあった。

「またね、啓ちゃん」と私は言った。足を一歩前に出そうとした瞬間、そのうち帰ってくるよ、という啓ちゃんの声が後ろから聞こえた。半分は私に、半分は自分自身に言っているような口ぶりだった。

「俺、北嶋さんとはあまり話したこと、無いけどさ。勝手にいなくなって、誰かに心配を掛けるような人じゃないってことは分かるんだ」時々詰まりながら話をする様子から、彼が慎重に言葉を選んでいるのが分かった。

「うん」

「たぶん、何か理由があるんだよ。どんな理由なのかは、分からないけど……。でも、いつか必ず戻ってくるって、俺は思うんだ」

「……うん」

「北嶋さんと一番親しかったのは、千景だろ。お前が落ち込んでいる顔を見たら、北嶋さん、きっと悲しむよ。だから、あまり暗くなるなよな」

 足元の啓ちゃんの影を見ながら、私は黙って(うなず)いた。

「……じゃあ、またな。何かあったら、電話していいから」

 彼の靴音がマンションの中で響き、やがてドアの閉まる金属的な音がした。

 目頭が熱くなり、呼吸が荒くなった。私は首を上に向けたまま、必死で涙を堪えた。ここで泣いてしまうと、日香里との思い出まで涙腺から流れ出てしまうような気がした。

 電線越しに見える青空に、飛行機雲が横切っていた。空ってこんなに青かったっけ、と急に思った。一直線に伸びている雲を見ていると、ささくれ立った気持ちがだんだんと落ち着いていった。


 鞄の持ち手を強く握ると、私は来た道を戻り、足早に歩き出した。日香里の家に行くためだった。今すぐに行動を取らないと、身体のパーツがそれぞれ違う方向へ飛び散ってしまいそうだった。日香里の父は公務員として働いているから、この時間には母親が一人でいるはずだ。

 公園の前を通り過ぎ、交差点に辿り着いた。左に曲がると高校へ続く上り坂があるが、私は直進した。左にカーブする道に沿って進むと、二階建てのこぢんまりとした一軒家があった。北嶋と書かれた表札が掲げてあった。

 玄関横の植木の花は枯れていた。私は意を決してインターホンを押した。くぐもった呼び鈴の音が聞こえて、たっぷりと時間を置いてから、日香里の母親が姿を見せた。

「あ……千景ちゃん、こんにちは」

 こんにちは、と挨拶(あいさつ)をしながら、私の心はぎゅっと締め付けられた。日香里の母親は、確かまだ40代前半だったはずだ。穏やかな人柄で、上品な感じの人だった。しかし、白髪交じりの髪をほうぼうに伸ばし、目尻に深いシワが刻まれている目の前の女性は、私が以前この家に遊びに来たときよりも、ずっと老けこんで見えた。

 どんな声をかけるべきが思案していると、「どうぞ」と言って彼女は私を家に招き入れた。

 玄関に日香里のスニーカーはあるが、学校指定の靴はなかった。照明の消された廊下を抜けると、広いリビングダイニングに通された。大きなテーブルがあり、四脚の椅子がいくつか並んでいて、好きなところに座るよう促された。キッチンに向かい、お茶の準備するらしい彼女に対して「お気遣いなく」と声をかけたが、曖昧に頷くだけだった。 

 日香里の母親は麦茶の入ったグラスを二つ、テーブルに並べた。グラスを置くときに氷がからんと音を立てた。彼女は私の前の席に座り、テーブルの上で手を重ねた。

「日香里のことで、来たのよね?」

 どんな言葉をかけようか悩んでいると、開口一番、向こうから話を切り出した。落ち着いていて、優しさの滲んだ声色だった。私は彼女の首元の辺りに視線を向けたまま、はい、と返事をした。

「どこに行っちゃったのかしらね、あの子。なんだか、心にぽっかり穴が空いたみたいだわ」

「日香里さんは、まだこの街のどこかにいると思います」

 自分でも驚くほど、熱のこもった声が出た。彼女がかすかに息を呑む音が聞こえた。

「……そうね、私もそう信じてる」

「あの日……日香里さんがいなくなった日、彼女はどんな様子でしたか」

「普段どおりだったのよ」テーブルに置かれた手に力が入り、骨ばった指が強調されていた。「寝ぼけた顔で歯を磨いたり、焼いたパンとスクランブルエッグを皆で一緒に食べたり、夫の寝癖を直したり……。八時を少し過ぎたあたりで、あの子が行ってきますと言って玄関に向かっていったのを覚えているわ。本当に、普通の朝だったの」

 数秒の沈黙が流れた。話の接穂を探しながら、私は慎重に尋ねた。

「警察の人は、なんて言ってるんですか」

「今朝、県警の刑事さんが家に来たわ」やや(うつむ)きながら、言葉を紡いだ。「隣の区まで範囲を広げて、捜索していますって。それと、もしかしたら、何か事件に巻き込まれたかも、しれないって」語尾がだんだんと震えたかと思うと、彼女は肩を震わせながら泣いた。

 外からバイクの排気音が聞こえた。それは家の前の道路を過ぎ去り、長い尾を引いて遠くの方へ消えていった。部屋の中で彼女の嗚咽が響き、耳朶(じだ)を打った。

「……ごめんなさい」彼女の涙を見て、心の中に苦々しい罪悪感が湧いてきた。

「こちらこそ、ごめんなさいね」白いハンカチで目元を拭いながら、みっともないところを見せちゃった、と言って微笑んだ。雨に打たれて散る花のような、(はかな)い笑顔だった。

「事件というのは、その、誰かに連れ去られたということですか」

「うん。誘拐された可能性もあるって、事情聴取のときに刑事さんから聞いたわ」でも妙なのよね、と言葉を区切った。

「妙って?」

「誘拐って、普通は身代金を家族に要求するじゃない」

「そうですね。テレビや映画で、そういうシーンを見たことがあります」

「だけど、三日経っても、犯人からは何の連絡もないの。これって妙でしょう?」

 私は黙って頷いた。

「……私には、まだ日香里が学校にいるような感じがするの。あの子が学校に行ってから、世界中の時間がずっと止まってしまったみたいで……。でも、そのうち時間の歯車が動き始めたら、ただいまって言って、日香里がひょっこり家に帰ってくるような、そんな気がするのよ」


 日香里の家を出ると、時刻は午後一時を過ぎていた。昼食は取っていなかったが、不思議と空腹感はなかった。しかし、先ほど麦茶を飲んだはずなのに口の中が渇き、唾液がコールタールのように粘ついていた。

 日香里の母親の話を聞いて、一つ分かったことがあった。日香里は家出などしていない、ということだ。娘を心配する母親の様子からは、決して演技で取り繕ったものではない、真に迫ったものがあった。同じテーブルで朝食を取るくらいには、日香里の家族は仲睦(なかむつ)まじく、彼女が急に家出を決行するとは思えなかった。

 駆け落ちという線も考えにくかった。日香里の口から、異性とそういう関係を築いているという話は聞いたことはなかったし、激しい恋に目覚めて逃避行をするような衝動性は、彼女の人格には備わっていないように思えた。 

 自分の意志で失踪したのではないということは、それは誰かに連れ去られたということを意味する。しかも、昼休みが終わって次の授業が始まるまでの、短い間に……。

 もし外部の人間が日香里を連れて行こうとするなら、悲鳴をあげて抵抗を試みるはずだ。たとえ凶器のようなもので脅され、声を出せなかったとしても、部外者が校内に入っている時点で、生徒や教師が犯人の存在に気づくはずだ。

 つまり、日香里は学校の誰かに連れ去られたということになる。彼女が今現在、犯人の家にいるのか、どこか人気のない所で閉じ込められているのかは分からない。既に亡くなっているという、最悪の事態は考えたくなかった。

「あの子、千景ちゃんとライブに行くのを楽しみにしていたわ。帰ってきたら、一緒に行ってあげてね」

 帰りしなに日香里の母親から言われた台詞が、頭の中で反響した。そして、私の中である決意が生まれた。それは、必ず日香里を助け出して犯人を捕まえるという固い決意だった。学校のどこかにいる犯人を探し出し、日香里のいる場所を突き止めて、彼女とまた話がしたかった。その思いは血流に乗り、身体の隅々まで行き渡って、私の中を温かく満たしていった。

 家に帰ったら昼食を取り、啓ちゃんに「今日はありがとう」とメールを送ろうと思った。鞄に付いている三日月のキーホルダーを見やった。照りつける夏の日差しを受けて、それはきらきらと輝いていた。夏休みがもうすぐ始まろうとしていた。

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