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side-A 1 退屈

 赤い月が空に浮かんでいた。

 翼の手入れをしながら、俺は窓の外に目をやった。赤銅に似た色の月は、歯で(かじ)られたように少しだけ欠けている。カシオペア座ガンマ星よりも明るいあの月を初めて見たとき、俺は天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたのだが、すっかり見慣れてしまった。住めば都という(ことわざ)があるけれど、南極だろうが砂漠だろうが赤い月の下だろうが、人はその気になればどんな環境にも順応できるのだと俺は感嘆した。まぁ、今の俺は人間ではなくて魔王なんだけどな。

 豪奢(ごうしゃ)な玉座に腰かけたまま、俺は別の翼の手入れに取りかかる。手入れと言ってもなんてことはない。ただ羽に付着している(ほこり)を指先で弾き、尾脂腺から出る脂肪分を羽に塗るだけだ。羽は全部で十二枚あり、当初は四苦八苦していたこの作業も、今では十五分ほどで完璧に仕上げることができる。鼻歌なんぞを口ずさみながら、俺はあっという間に翼の手入れを終えてしまい、よっこらせと椅子に座り直す。天井に吊るされた真鍮(しんちゅう)製のシャンデリアがダークゴールドの光を放ち、俺の翼はその光を受けて輝きを放っていた。自分の身体の一部ながら、俺は自分の子どもが運動会の徒競走で一位になったときのような誇らしい気持ちになる。


「……暇だな」

 椅子の肘掛けに付いた髑髏(どくろ)のオブジェを撫でながら、俺は嘆息した。隣室にいる黒猫――日々のほとんどを睡眠に費やす魔女で、僭越(せんえつ)ながら俺の嫁だ――は眠りについているだろうし、夜の帳が下りたこの時間では勇者が来ることもまずないだろう。食器も全て洗ったし、翼の手入れもしたし、かと言って読みさしの魔導書に手を付ける気分でもなかったから、俺はどうしたものかとしばらく逡巡(しゅんじゅん)した。魔王の俺が暇なのは、城に住む魔物たちにとっては大変喜ばしいことなのだろうが、このままでは退屈の種が脳味噌で発芽して、気が狂ってしまう。

 ある場所に向かうため、俺は玉座から立ち上がると、大理石の階段を数段降りた。王の間の床には巨大なモザイク画が描かれており、その上に朱色の絨毯(じゅうたん)が伸びている。絨毯が敷かれているせいでモザイク画があまり見えないのは少々寂しいな、などと思いながら俺は絨毯の上を進み、アーチ型のドアを開けて右に曲がった。

 西の塔へ続く回廊に照明は無く、窓から差し込む月光がかえって室内の闇を強調している。別に怖いわけではないけれど、せめて足元の照明ぐらいは欲しいものだ。城には最低限の照明しか設置されておらず、不注意で蹴躓いてしまいそうになったことが二、三度ある。だが、部下の悪魔は皆一様に暗がりを好むし、あまり明るくし過ぎても城の雰囲気を削いでしまうだろうから、今でも城内は暗いままである。大事なことなので二回言うが、別に暗闇が怖いわけではないぞ。俺はただ単に、部下の気持ちを第一に考えているだけだ。

 誰の趣味なのか分からないが、回廊にはドラゴンの像や巨大な絵画が飾られている。特に絵画の数は膨大で、鳥に似た悪魔が天使を襲撃しているものや、村民が骸骨の大群に虐殺されているものなど、悪趣味なことこの上ない作品ばかりだ。そんなグロテスクな絵が城の至る所で展示されており、俺の城はますます不気味な様相を呈することになる。そして鈍く輝く赤い月が、その不気味さに拍車を掛けていて、自分の家ながら、よく住んでいられるな、と俺は苦笑してしまう。

 北の窓から外界を見下ろすと、遠くの山の峰に、寄り添うようにして家が立ち並んでいた。エンデ――この世界の言葉で終焉(しゅうえん)を意味する――と呼ばれるあの街は、三方を山や鬱蒼(うっそう)とした森に囲まれていて、エルフと農民が互いに協力することで、慎ましく発展していた。

「明日、変身してあそこに行ってみるか」

 (にじ)んだインクのように見える家々の灯を眺めながら、俺は呟いた。魔王というのは城の最上階でどっしりと構えているのが常なのかもしれないが、こんなに毎日城に引きこもっていたら尻から根が生えて固まり、そのまま城の調度品の一つになってしまいそうだ。たまには下界を散策するのも、気晴らしになって良いだろう。

 回廊の突き当たりには広間があり、俺はその右手にある螺旋(らせん)階段を降りた。城内は静かで、全てがしんと息を呑んでいた。階段を降りる自分の足音がやけに大きく聞こえる。音が城の四方に散らばって反響し、増幅されているのかもしれない。


 下の階に降りて、穹窿(きゅうりゅう)形の天井が立派な回廊を抜けると、お目当ての木製のドアがある。(かんぬき)を外してドアを開け放つと、涼やかな風が室内に入り込んだ。周りを塔に囲まれた中庭が眼前に広がり、西の塔から月が顔を覗かせていた。

 十頭の象を余裕で放し飼いできるほどの広さを持つこの中庭は、城の中で俺が最も気に入っているスポットだ。敷き詰められた石版の質感や、金属的な鳥の鳴き声、(ささや)くような木々のざわめきは、なんとも叙情的で心が落ち着いてくる。木のドアの側にはゴブリンの頭部が四つ取り付けられた噴水が置かれている。醜悪なゴブリンの顔も、月光の作る影の具合によっては愛らしい表情をすることがあり、これはこれで味わい深い。

 外の空気を吸い込み、たっぷりと肺に充満させてから息を吐き出す。深呼吸を何度か繰り返すと、まるで早朝の冬の空気みたいに頭が()えて、熱を帯びた思考回路がクールダウンし、俺は冷静に物事を思案できるようになるのだ。

 この世界にいつまでいられるのだろうか、と俺はたびたび考える。悪魔に寿命があるとは思えないし、誰かに殺されない限り、俺は全ての悪魔を統べるボスとして永遠に君臨し続けることになるだろう。そして、あくまで――断っておくが、ダジャレではない――これは勘だが、俺を玉座から引きずり落とすのは、この世界のどこかにいる勇者以外にあり得ない。勇者が俺を打ち倒し、魔王としての自分が滅んだとき、俺は一体どうなってしまうのだろう。そんな未来を見てみたい気もするが、俺にだって不格好ながら魔王としてのプライドってやつがちゃんとある。簡単に王の座を退(しりぞ)くわけにはいかないし、かといってあっさりと勇者に死なれても、それはそれで味気ない。

「まあ、せめて退屈しのぎになるぐらい、強い奴であってほしいな」

 俺はそう呟くと、(きびす)を返してドアの方へ歩き出した。噴水の水で顔を洗ってから部屋に戻り、魔導書の続きでも読もうと考えていた俺の目は、ふと何か気になるものを捉えた。

「あれは……ネズミか?」

 噴水の側ですばしっこく動いていたのは、体長五十センチほどのネズミだった。目の周りが黒く、ネズミというよりは子どものパンダに見える。この世界ではテソーと呼ばれているあのお化けネズミは、ピアノ線に似た(ひげ)をピンと伸ばし、血走った目で俺を(にら)んでいる。テソーは主に死肉を餌にしていて、動物の死骸や生ゴミを漁るために街へ出没することがあるそうだ。汚らしい見た目をしているが、テソーの肉は淡白で食べやすく、味は鶏肉に似ているらしい。いつぞや、妻の黒猫が食卓でそんな話をしていて、俺は笑顔で相槌(あいづち)を打ちながら、心の中では辟易(へきえき)した顔を浮かべていたのだった。

 なぜネズミが城の中庭にいるのだろう、と俺は首を捻った。崩れた外壁の隙間から潜り込んだのだろうか。この城は老朽化が進んでいると部下の悪魔から相談を受けたことがあったし、そろそろ大規模な補修工事が必要だな、などと考えながら、俺はじりじりとテソーに歩み寄っていく。ネズミは歯の隙間に肉片を挟んだまま、背中の毛を逆立ててこちらを威嚇していた。

 お互いの距離が三メートルほどになるまで近づくと、俺は指をテソーの眉間の辺りに向けて「クラインフランメ」と小声で唱えた。日本語に翻訳するなら、ちっぽけな炎、と言ったところか。一列に並んで立っているドミノ(ぱい)の、最初の一つを指で突くような、わずかな力で魔法を放ったつもりだったが、腹の底に響く重低音と共に火柱が上がり、テソーは断末魔を上げる猶予も無く身体を焼かれて絶命した。

 敵を倒すと経験値が得られるのだが、エネルギーを充填(じゅうてん)されたとき特有の手応えが全く無い。たぶんこのネズミから獲得できる経験値があまりに微量で、上昇した値が少なすぎたからだろう。


 黒焦げになったテソーの尻尾を掴み、俺は城の中に戻った。テソーは嫁の好物だから、夜食として振る舞うのも良いし、このまま保存しておいて明日の朝食として出しても良い。普段からわがままばかりのあいつのご機嫌メーターの針が、少しでも良好な方に傾くのなら、俺はいつでもねずみ駆除の業者になるつもりだ。

 ドアに閂を指し、回廊を歩きながら、俺はテソーを一瞥(いちべつ)した。手加減をしたつもりだったが、まさかあそこまで派手に燃えてしまうとは。少しばかり驚かせてやろうという、ちょっとした悪戯(いたずら)心だったのだが、ばつが悪いぞ、これは。

 自分の魔力をいかに上手くコントロールできるかどうかが、今後の課題になりそうだ。手ぶらの戦士ほど心許ない者もないが、あまりに強大な力を持った魔王も、それはそれで考えものである。やれやれ、と俺はため息をついて、ネズミの化け物を片手に階段を上った

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