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放課後の梅ちゃん(2)

「――あっ」

 一度帰宅した僕は、椅子に座る事も無く、もう一度家を出る。

 さっきまで跨っていたサドルの温度も冷めやらぬ間に、また自転車に乗って僕が向かったのはどこかというと――

「まだ、門が開いていれば、いいんだけど……」

 ――学校。

 家に帰り、鞄を開けてみると、入っているはずの今日の課題のプリントが入っていなかった。

 数秒間、『面倒臭さ』と、『真面目さ』が互いに綱引きをしたのだけれど、課題を忘れていくという事は、さらに面倒な事になるという事実に気がついてしまった僕は、本日二度目の登校をすることに決めたのだった。

 いつもは朝の眩しい日差しの中で通う通学路を、今は西に傾いた日がオレンジに染める中、僕はペダルを漕いで、一路学校へと向かう。伸びきってしまって、もはや何なのか、全く分からない影を引き連れた僕は、いつもとは違う雰囲気の街並みに、違和感とも取れない何か、不可思議な感覚に、胸をざわつかせる。

 時間は所謂、黄昏時――。

 薄暗くなってきて、人の顔が判別しにくくなり、「誰そ、彼は」といって人を確認していた事から、そう呼ばれるようになったという。

 色々なものの境界があやふやになり、()(がん)彼岸(ひがん)が近づくとき――。

 そのことからこの時間帯は「逢魔(おうま)(とき)」と呼ばれ、幽霊や妖怪といった化物の類と逢いやすい時間だといわれている。

 だとすると、向こうからやってくるのは、本当に人間?

 それとも――?

 などということを、考えている間にも、学校へ到着した。

 幸いな事に、校門はまだ空いたままだった。

 校門を抜け、そのまま用務員室を覗いてみたら、おじさんはまだ、戸締りと見廻りには出ていなくて、暢気にお茶なんかをすすっているところだったので、僕はそのまま階段を上り、教室へと向かうことにした。

 

 太陽は西に傾き、窓から差し込む光は、廊下を赤く染め上げる。

 黒い影が伸び、夜が静かに忍び寄ってくるのが、目に見えてとれる。

 昼間とは全く違う表情を見せる、人気も無く薄暗いオレンジ色の廊下を進んでいると、何となく、本当に、何とな~く背筋が寒くなるような気がしないでもない。……いや、強がってみたけれど、本当のところは、さっきから廊下の曲がり角には何かの気配をビンビン感じるし、階段の上からは誰かにガンガン見られている気さえしている。

 そんなやたらと分厚い少年漫画雑誌の名前のようなことを言ってはいるが、僕は決してビビッている訳ではない……と、一応言っておこう。

 そう!これはきっと僕の中のニュータイプ的な何かが覚醒して、第六感を引き出し、拡張した感覚が『何か』を感じ取っているのだろう。

 って、『何か』って何だよ!

 この場合の『何か』って言ったら、もうそれは、ほとんど『あれ』を指しているに決まっているじゃないか!

 そんな事ばかり考えていたら、何気ない物音や、怪しげな雰囲気に敏感になってくる。最近よく聞く噂話の事もあるしな……。

 

 ――スタスタスタ。

 ほらほら、気にしすぎてるから、背後から足音だって聞こえてきているじゃないか。

 ああ、そうか、多分、気味が悪いと思いすぎているせいで、幻聴が聞こえてきているんだろうな。

 

 ――スタスタスタ。

 まったく、この歳で幻聴だなんて……。

 もっと気をしっかりと持たねば、イカンな。フム。

 

 ――スタスタスタ。

 ……あら?気をしっかりと持てば聞こえなくなると思っていたのに、この足音、消えるどころかますます大きくなってないか?

 

 ――スタスタスタ。

 いやいやいや(笑)まさか、気のせいだろう?まあ、僕の歩調が速くなっているのは、置いておくにしても、離れていかないのは何故なんだ?

 

 ――スタスタスタ。

 ちょ、ちょ、離れていくどころか、足音が大きくなってきているということは、近づいてきてないか?

 

 ――スタスタスタ。

 これ、マジでやばくないか?もう、すぐ後ろまで来ているみたいなんだけど……?

 

 ――スタスタスタ。

 これって、もしかしてあの噂の……?

 

 その時だった。

 ほとんど走り出しそうな勢いで歩く僕の腕を、『何か』が突然強く掴んだ。

「ぎゃあああああああああああああああああっ!」

 言い訳ではないが、そんなことされれば誰だって悲鳴の一つぐらいあげるというものだ。

 しかし、意外だったのはその後だった。

「きゃあああああああああああああああああっ!」

 僕のすぐ後ろ、つまりは僕の腕を掴んだその『何か』も大きな悲鳴をあげたのだ。

「えっ?……悲鳴?」

 驚いた僕が振り返ると、

「もう!驚かさないでよ、禰々宮くん」

 そこには、僕の腕を掴んだまま、可愛らしく頬を膨らませて、僕に抗議する巻菫子が立っていた。

「そりゃ、こっちの台詞だって!なんだってこんな事をして僕を驚かしたんだよ!?」

 僕の問いかけに、巻は僕の腕を離し、

「別に、驚かそうとしたわけじゃないわよ」

 と言って、いつも通り優しく微笑んだ。

「あたしはただ、廊下を歩く禰々宮くんを見つけたから、近づいて声をかけようとしたのだけれど、あたしが近づけば近づくほど、まるで逃げるみたいに禰々宮くんが早足で行っちゃうから、仕方なく腕を捕まえただけよ。一体、何で、あんな逃げるみたいな事をしたの?」

 彼女はそう言って、(無駄に)キラキラとした瞳で、僕の顔を下から覗き込む。

「べ、別に、逃げてた訳じゃねえよ……」

 いや、本当は逃げてたんだけどね。

「ふうん?本当に?本当にそうなのぉ?」

 巻はイタズラっぽく笑いながら、僕の顔色から、その真偽を伺うように、顔を近づけて来た。

「あたしに嘘をついたって、分かるんだからね!」

 一体どんな自信があるのかは定かではないが、超電磁砲(レールガン)並みの威力をもったウインクを、僕の瞳に放って、彼女はますます顔を近づけてくる。

「う、嘘なんかついてねえよ。何で僕が巻から逃げなきゃいけないんだよ」

 などと、そのウインクに撃ち抜かれた僕が言い訳にかまけている間にも、巻は3ピクトばかり接近してきていた。分かりにくいので言い換えると、曖昧3センチの距離まで近づいてきたのだった……って、余計に分かりにくいか。

「本当かなぁ~?」

 僕の言い訳なんて、彼女を止めるという効力を、怪しげな民間療法ほども発揮せず、ますます彼女の顔が、僕の顔に近づくことになるのだった。

「ん?ん?んん~~?」

 目の前まで迫った巻の顔は、近くで見れば見るほど、それはそれは美しく、甘い吐息が漏れてきそうな小さな唇に、僕の鼓動は早鐘を打ち、彼女の長く美しい黒髪からふわりと漂ってきた芳しい香りに、僕は眩暈さえ起こしそうになった……って、どこの純文学気取りだよ。

「ん?何、黙っているの?」

 ぐいっと、巻は僕との距離を一段と縮めてくる。

 近づきすぎて、それはもう、体が触れ合いそうなほどだ……って近けえよっ!

「ちょ……近い……」

「……あっ」

 思わず身を引いた僕の反応を見て、巻もやっと近づきすぎたことに気がついたようで、えへっ、と舌を出して二、三歩後ずさる。

「……ごめん、ね?」

「……いや、別に……こちらこそ」

 御馳走様でした。とは言えないよな……。

「「………………」」

 …………気まずい。

 気恥ずかしさやらで、お互い黙り込んでしまったことで、一気に気まずさだけが胸の内からせりあがって来る。何とかしてこの気まずさを打開しなくては。

「…………あのさ――」

「と、ところで、禰々宮くんは、こんな放課後の学校で何をしていたの?」

 話そうとした僕の言葉を遮るかのように、巻は早口で僕にそう訊ねる。

「何って……僕はただ、忘れ物をしたから、それを取りに戻っただけだよ」

「へえ~忘れ物……」

「おう、今日の宿題のプリントを忘れてしまって……」

「そうなんだ……」

「「………………」」

 …………あれ?気まずいままだぞ?

「あ~……なんだ……それで、そっちは何してたんだよ?」

「えっ?あたし?」

 僕は何となく照れ隠しで頭を掻きながら、そんな事を巻に訊ねてみる。

「あたしはね~幽霊探しっ!」

 と、巻は、よくぞ訊いてくれました、と言わんばかりに目を輝かせて、そんな電波な事を誇らしげに僕に話す。

「ゆ、ゆ、幽霊探しぃ?」

 同級生に何してた?と訊いた時の答えでは、とびっきりの想定外なのだけれど、どうやら巻本人にとっては、普通のことらしく、

「厳密にいうと、幽霊じゃないとあたしは思っているのだけれど……」

 などと、戸惑う僕を置き去りにして、的外れな事を気にしている模様。

「なんだって、そんな事を……?」

 僕が思わず呟くようにそう訊くと、巻は真剣な面持ちで、

「……放課後の梅ちゃんって……知ってる?」

 そう返してきた。

「あ、ああ……まあ、知ってるってほどではないけどな」

「実は……あたし……」

 俯き加減に巻は、とんでもない秘密を打ち明けるような口調で、話し始める。

「じ、実は……?」

 張り詰めた空気に、僕も思わず息を飲む。

「実は……オカルトがだぁい好きなの!」

「……へっ?」

 オカルト?

「超能力者、ネッシー、妖精、雪男、ツチノコ、河童、ヒバゴン、シーサーペント、ビッグフット、チュパカブラ、スカイフィッシュ、ムケーレムベンベ、他にも色々あるけれど、そういった世の中の不思議な事や、奇妙なモノが、あたし、大好きなの!ああ、もちろん幽霊も大好きよ!」

 よほど好きなのか、巻はとても興奮した口調で、何だかよく分からない、お経のような名前を一息で言い切ると、自慢げに胸を張った。

 それにしても詳しすぎるだろ……何だよ?ムケーレムベンベって……?

「もしこの学校に、宇宙人、未来人、超能力者、異世界人、もしくはそれに類するものがいるなら、あたしのとこに来なさい!」

「どこぞの団長のような事を言うな!」

(S)世界を(O)大いに盛り上げる(S)菫子の団、なんて作らねえだろうな。

「それで?お前は、その放課後の梅ちゃんとやらを探してんのか?」

「そうなの!居残ってずっと探してるんだけど、まだ出会えてないのよね~。どうやったら会えるのかしら?」

 僕は呆れて、冗談交じりに訊ねたつもりだったのだけれど、彼女はいたって真面目だったらしく、どうやったら会えるか、その方法の考察をブツブツと呟いている。

「あたしとしては、梅ちゃんは幽霊ではないと思うのよね……」

 まるで本格推理小説の探偵のように、目を細め、顎を撫でながら、巻はそう言って、僕に不適な笑みを見せる。

「さっきもそう言っていたけれど……それじゃあ一体、何だっていうんだ?」

 別に、彼女の答えが気になったというわけではない。はっきり言って僕はそんなにオカルトに興味があったわけでもない。じゃあ、何故こんな事を訊くかと言うと、それには二つの理由がある。

 一つには、巻自身には、それなりに興味があるという理由。もう一つ、まあ、こちらが理由のほとんどになるのだけれど、それは、

「ん?何だい?禰々宮くん?もしかして、もしかしたら、興味がお有りかな?ん?」

 と、さっきからこちらをチラチラ見ながら、どうしても梅ちゃんの正体について、話したくてしょうがないから是非とも訊いてほしい、と顔に張り付けまくった巻に、同情(これがほとんど)と好奇心と下心に流されて、訊いてみようかなと魔が差したからなのだった。

「しょうがないな~じゃあ、教えてあげよう」

 ふふん、と鼻を鳴らして巻は得意げに話し始めた。

「あたしが思うに、梅ちゃんは霊界からの使者なんじゃないかしら?」

「霊界からの使者?死神みたいなものか?」

 なんとも怪しげな話になってきたな。

「ううん、死神とは少し違うわ。禰々宮くんは知らないかもしれないけれど、あたし達の学校、つまりこの東雲学園って、その母体が東雲神社っていう、かなり古い神社なのだけれど、その神社にこんな伝説があるのよ――」

 さすが自称オカルト好きと名乗るだけあって、巻が話してくれた東雲神社に残る伝説というのは、生徒間の噂では聞いたこともないような話だった。

「昔、それこそ平安時代の終わり頃って言われているのだけれど、その頃、東雲神社ってこの世とあの世を繋ぐ門みたいな役割をしていたらしいのよ。東雲神社の神主が、あの世とこの世の交信役を担っていて、それを政治やらに生かしていたんだって。それで、その交信方法というのが、あの世から使者を呼び出して、その使者を通して交信していたという事なの」

「へえ~そうなのか……」

 と、言うしかないほどにしか、僕には興味の無い話だった。

 けれども、とりあえずここで話を続けないことには、さっきの気まずさが舞い戻ってくることになってしまう。それだけは避けなくては。

「なるほど、だから梅ちゃんは、その使者だって言いたいんだな?それにしても、さすがオカルト好きだって自分で言うだけあって、本当に詳しいんだな。どこでそんな事調べたんだよ?」

 僕の『とりあえず』の言葉を褒め言葉と思ったらしく、巻はへへへ~と照れたように頭を掻いてから、

「それは秘密」

 と小さく可愛らしい唇を尖らせ、その前に人差し指を立てて意地悪っぽく笑う。

「なんであたしがこんな事を知っているかというのは、企業秘密なのです」

「企業秘密って……そんな大仰なものでもないだろう?」

「ウフフ、でも、秘密なものはひ、み、つ」

 そう言うと巻は魅力たっぷりの笑顔を、僕に惜しむことなく見せた。

 フッ、まったく、そんな眩しい笑顔を見せ付けられたら、こう言うしかないじゃないか。

「これから毎日、僕のために味噌汁を作ってくれ」

「は、はい?」

 巻は、その大きな瞳をぱちくりしながら、戸惑っている。

「い、いや……何でもない、忘れてくれ……」

「う、うん。まあ、いいけど……」

 巻は、その優れた危機察知能力で、僕の言葉の真意を問い詰める事をやめた。

 いや、正しくはやめてくれた、かな?

 

「――さて、と」

 肩を並べて歩いていた巻が、突然立ち止まる。

「ん?どうした?」

「あたしはここで――」

 巻はそう言って、微笑む。

 どうやら、僕たちはすっかり話し込んでしまっていて、知らないうちに階段までたどり着いてしまっていたようだ。僕たちの教室は、この階段からさらにもう一つ上の階にあるので、「あたしはここで、バイバイなのです」と、いうことだ。

 そう言うと、巻は小さく手を振る。

「お、おう、じゃあな」

 急なお別れに後ろ髪を引かれつつも、僕も片手を挙げてそれに応える。

「また、明日」

「ああ、また明日な」

 僕たちは、ごく当たり前に、平和そのものな挨拶を交わす。

 最後にもう一度、にっこりと微笑むと、巻はひらりとスカートを翻しながら回れ右をし、階段を下りていく。あっけなく去っていこうとする巻を、引き止めるでもなく、追いかけるでもなく、僕はただ、名残惜しそうに見送るしかできなかった。

 本当は、まだ巻との楽しいお喋りに興じていたいのだけれど……なんて、言える訳ないよな。

 しかし、その時、

「――あ、そうだ」

 僕の心の声が聞こえてしまったのか、それとも優しくお節介な、近所のおばちゃんみたいな神様が、僕の願いを叶えてくれたのか、巻は階段を二、三段下りたところで、唐突に立ち止まった。

「どうした?何か言い忘れた事でもあるのか?例えば……そう!愛の告白とか?」

「ううん、全然、全く、全然そんな事じゃないよ、全然」

 巻は、きっちりと、何なら少しくい気味に、僕の言葉を否定する。

 いや、確かに僕は少し図に乗っていたと思うけれど、何もそこまで言わなくたっていいじゃないか……。

 大体、何回、『全然』って言ってるんだよ?

 それだと、まるで三倍どころか三乗に拒絶されたように感じるじゃないか……。

「そうじゃなくって、禰々宮くんに忠告なんだけれど……」

 泣きそうになっている(本当は泣いている)僕を全く気にかけないどころか、こちらを向こうともせず、巻は話し始める。

「忠告?」

 その言葉も、巻の醸し出す雰囲気も、全くもって穏やかではない。

「そ、それで忠告って……?」

 ゴクリ……と、思わず生唾を飲み込む。

「今日なんかは、出ると思うの……」

「出る……?」

 って、何が?

 ……まあ、何となく分かるけれど。

「こんな日はね……きっと、放課後の梅ちゃんが――」

「出るっていうのか……?まさか……?」

 巻はどうやら僕が思っているよりも、もっと本気であの噂話を信じているようだ。

「あれは、ただの噂話だろ?」

「本当にそう思う?」

 巻は依然として、こちらを向く気配はない。そのまま、続ける。

「たくさんの生徒が目撃しているし、この前なんか、実際にさらわれた人がいるじゃない」

「まあ、それはそうだけど……」

 いくらなんでも、それだけで信じられるわけがない。

「だけどさ、この前のさらわれたって生徒だって、おおかた何か理由があっての、自作自演の誘拐劇だった、とも考えられるだろ?だから、それだけでは、とてもじゃないけれど僕は信じることはできないな」

 本当のことを言うと、巻の言葉と態度に、僕は少し怖くなってきていた。だからなのだろう、僕は普段張りなれていない『虚勢』というものを、年相応の男の子らしく、無理をして張る。

「もしも、仮に、万が一、その放課後の梅ちゃんとやらがいるのだとしたら、僕が捕まえて、その正体を明かしてやるよ」

「そんな事言っていると――」

 向こうを向いていて、少ししか見えない巻の口元が、不気味に笑った――

「――梅ちゃんに連れて行かれちゃうよ」

 ――ように見えたのは、僕の錯覚だろうか?

「な、何言って……?」

 それ以上、言葉にならなかった。

「………………フフフ」

「えっ?」

「な~んちゃって!」

 巻はくるりと振り返り、僕に満面の笑顔を見せる。

「ウソ、ウソ!冗談だよ、禰々宮くん!もしかして本気にした?」

「んだよ!もう!ビビらせるなよな!」

「ウフフフ、ごめん、ごめん」

 巻はそう言うと、ペロっと舌を出し、ウインクする。

 よし!その顔が可愛いので、許す!と、僕の中の陪審員、全員の同意が得られ、巻に対して無罪判決が下りたのだった。

「ほんとに勘弁して――」

「じゃあ、気をつけてね、禰々宮くん。バイバイ」

 僕は話していたかったのだけれど、巻はそう言うと、スタスタと全く名残惜しくなさそうに、階段を下りていってしまったのだった。巻があまりにもあっけなく去っていくので、僕は、

「あ、ああ……」

 と、間抜けに、返事とも、なんともとれない声を、漏らすことしかできなかった。

「気をつけろって言われても……」

 結局一人、薄暗くなり始めた廊下に残ってしまった僕は、そう呟いて、寂しさを噛みしめる事になるのだった。

 とりあえず、彼女からも、彼女の言葉からも、すっかり取り残されてしまった僕は、彼女の忠告の意味もさほど深くは考えずに、忘れ物を取りに教室へと向かった。

 しかし、このときの僕は、もっと彼女の忠告を真摯に受け止めなくてはいけなかったのだ。

 そう、後悔することになる事を、この時の僕はまだ知らない。

 この時点ではまだ、引き返すことも出来たという事も。


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