放課後の梅ちゃん(15)
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「最初は――」
静かに口を開く贄姫。
その声は、夜明け間近のグラデーションを見せる空に、響いて解ける。
「最初は、ただの他人の空似だと思っていたのだがな……」
手すりからひょいっと飛び降りて、贄姫はゆっくりと歩きながら話す。
「私にとっては、その顔やその声、その姿は忘れたくても忘れられない……」
贄姫は、そう言うと歩みを止めて、こちらを向きなおした。
「正直、なんでお前がそんな姿なのか、私には分からなかったけれど、これではっきりと分かった……」
「分かったって、何が……?」
僕の問いかけに対して、贄姫は優しい表情を浮かべて返してきた。
「それは……」
「それは……?」
息を飲んで待つ、僕の鼓膜を震わせたのは、とても信じることの出来ない、贄姫のこんな言葉だった。
「それは、お前がハクの生まれ変わりだという事だ」
「……は?生まれ変わり?お前、何、言って――」
信じることが出来ずに、とっさに冗談だと思った僕が、鼻で笑おうとしたのだけれど、その言葉を止めてしまうほど、僕を見つめる贄姫の瞳は真剣だった。
「い、いや、でも、何でそんな事が判るって言うんだよ?」
本当は嘘だとは言わないまでも、勘違いや思い込みだと、そう指摘しようと思ったのだけれど、贄姫の真剣さにおされて、ついこう口走ってしまった。
「そりゃ、シチュエーションから考えると、まるで僕がその術を解いたみたいに見えるだろうけれど、別に僕は何か特別な事をしたわけでは無いし、それで、それだけで生まれ変わりだなんて……ちょっと短絡的過ぎるんじゃ……」
「確かに……それだけでは理由としては弱いだろうな。まあ、私にはそれだけでも十分なのだけれど……でも勘違いするな、何も理由はそれだけじゃないぞ」
偉そうにふんぞり返って、贄姫は僕にその理由とやらを話し始める。
「まずはその見た目、それに声も、性格も多分そうなのだろうけれど、全てがそっくりなのだ」
「そっくりって誰に?」
こうは言ったものの、大体目処はついているのだけれど……。
「誰って、そりゃ決まっているだろう?」
一段と胸を反り返らせて、
「ハクだ」
と、贄姫。
「そんなところだろうと思った……」
「何だ?この理由だけでは不服なのか?」
頬を膨らませて、自分の方こそ不服だと言わんばかりの贄姫なのだった。
「そりゃそうだ。ただ似ているってだけで生まれ変わりだなんて言われても、こちらとしては挨拶に困る、というものだろう?」
「それはそうだな」
もっと言い返してくるかと思ったけれど、意外にも贄姫はすんなりと認める。
と、思ったのだけれど、
「では、もう一つの理由を教えてやろう」
どうやら、これが言いたいが為に、ひとまず納得して見せたようだ。
得意げに笑みを浮かべて、
「名前」
とだけ、贄姫。
「…………は?」
もういい加減、こいつの説明下手には慣れてきたけれど、それにしたってちょっと説明が無さ過ぎるだろうよ。そして、贄姫といえば、自分の説明下手さ加減を棚に上げて、威圧的な態度をとることで有名。
「だから!な、ま、えっ!」
「お前、何言って――」
抗議の声をあげようと意気込む僕に、贄姫はくいっくいっと上に向けた手のひらを折り曲げる。その仕草は、全盛期のブルース・リーのそれのようで、なるほどかかって来いということかと、構えたのだけれど、どうやらそうではなかった。
「何……?名前を言えってことか……?」
僕の問いかけに、贄姫はこくこくと首肯してみせる。
「名前って……九十九だけれど……」
今更、この行動に何の意味があるのだろうか?
「それは知っている」
なら訊くなよ!
「そうじゃなくて、字はどんな?」
どうやら、贄姫は字が知りたかったようなので、
「九十九で九十九だけど?」
と、教えてやる。
「そう、それだ!それが何よりの証拠なのだ!」
「なのだって言われても……」
結局、訊いても分からないのだけれど。
「なあ贄姫?もう少しちゃんと教えてくれないか?つっても、どうせ教えてはくれないだろうけれど」
「いやいや、そんな事は無いぞ。フフフ」
贄姫はそう言って、イタズラっぽく笑う。
いや、その顔はお前、絶対ワザとだろ。
そんな僕のジト目を軽く受け流して、贄姫は話す。
「教えてしまえば、簡単なことだ。小学校で習う事だから、さすがの九十九だってきっと分かると思うのだけれど……引き算ぐらいわかる?」
「何を心配しているのか分からないけれど、これは馬鹿にされていると判断していいんだよな?だとしたら、訴えてやる!」
心配そうに覗き込んでくる贄姫の顔が、このときばかりはやけに腹立たしかった。シチュエーション次第では、惚れてしまうのだろうが。
「そう言うなら、答えられるだろう?」
不敵な笑みと共に、出題されたのは、
「百引く一は?」
といった、簡単と言うのも憚られるような、そんな分かりきった問題だった。
「……引っ掛け問題……じゃないよな?」
「どこに?どうやって引っかかる?」
「それもそうか。じゃあ……九十九、って、だから?」
それがどうしたというのか、贄姫はうんうんと満足気に頷く。
「それじゃ、第二問!」
「続くの!?」
ふっふっふっ、と含み笑いを浮かべたまま、贄姫は出題するのだった。
「じゃあ、次は国語の問題」
「お、おう、何でも来い!」
説明になっているのかどうか疑わしい所ではあるのだけれど、どうやらこの質問に答えて行く事で、何かが分かるのであれば答えるしかないだろう。
それがたとえ、心の底からめんどくさい事だろうと。
「さあ!どんな問題なんだ?」
待ちうける僕に、人差し指を立ててみせ、得意げに贄姫は口を開く。
「では、問題です。百引く一は?」
「…………はあっ!?」
これは馬鹿にしているのか?
「さっき答えただろ?答えは九十九――」
「――そうじゃない」
贄姫は、真剣な面持ちで僕を遮る。
「国語の問題だって言っただろ?」
「国語の問題……?お前、やっぱり引っ掛け問題……あっ」
そうか。分かったかも。
「て、いうか引っ掛けじゃないにしても……」
『とんち』と、でも言うのだろうか?
「百から一を引く……つまり漢字の百から漢字の一を引くと――」
僕は、新衛門さんにとんちを披露する一休さんのような決め顔で答える。
「答えは白、『ハク』ってことか」
「正解!」
僕の答えに、嬉しそうに微笑む贄姫。
「これで私が何故、お前をハクの生まれ変わりだと言ったか分かっただろ?名は体を表すと言うからな」
うむうむ、なんてもっともらしく頷いて見せてはいるけれど、
「いやいや、贄姫よ。さすがにそれは安直過ぎるんじゃないか?いくら、僕がそいつに似ていて、名前も因縁が有り気だけれども、生まれ変わりっていうのは、ちょっと……」
「そうか?だがしかし、そうなのだからしょうがない」
僕の反論に対しても、まったく揺るがない贄姫。
「まあ、今、説明したのは所謂外付け、後付けの理由だしな。お前が納得しかねるというのも、分からんでもない。だけど――」
夜明けが近いのか、山の稜線が赤く染まっていく。紺色に茜色が滲んでいく中、贄姫の良く通る声が響く。
「そんな理由なんて無くたって、私は知っている。お前がハクだってことを、しっかりと確信しているのだ。だって――」
こちらを向いた贄姫は、一足早く顔を出した朝日のような暖かな微笑を浮かべていた。
「だって、ずっと待っていたのだから……」
その時――
「お、おい!贄姫っ!」
突然、贄姫の体が光り始めた。
「そうか……もう、時間か……。もう少し、話していたかったのにな……」
光り始めた自分の体を、確認するようにして、贄姫は小さく呟く。
「今度は一体、何が起こったっていうんだよ?」
「何にでも、終わりというものはやってくる。楽しかったけれど、お前とのおしゃべりも、これでおしまいということだ」
「ちょっと待てよ!それって一体、どういう意味なんだよ!?」
そうしている間にも、贄姫の体はどんどんと光を強めている。
「この世に私を縛り付けていた力は、さっきお前が解いてくれただろう?だから、もう私がこの世に留まっている理由も、生きつづけなくてはいけない理由もなくなったのだ」
光を放つ贄姫の体は、徐々に薄く、まるで今、朝日に闇が溶けていくかのように、消えていこうとしていた。
「お、おい!お前、体が!」
「理由がないなら、私は消えるしかないだろう?」
僕の戸惑いに対して、贄姫はそんな事を返してくる。
「消えるって、何、言ってんだ!そんなんでいいのかよ!?」
実にあっさりとした贄姫の態度に、何故か苛立ちを感じながら、だからだろう、僕は声を荒げて贄姫に詰め寄る。
「この世に留まる理由が無いって、お前、じゃあ消えたらあの世に行ってしまうっていうことじゃねえのかよ!それなのに、なんでそんな簡単に受け入れてんだ!もっと、抗えよ!もっと何かあるだろうが!」
贄姫は、黙ったまま俯く。
「せっかく、お前を縛っていた、その忌々しい力は無くなったんだろ!?だったら、これからはお前は自分の人生をやり直したっていいはずじゃねえのか!?」
八百年の孤独という、とても想像すらできないような長い時間を、一人で生きなくてはいけなかったのだ。少しは救いがあったっていいはずだ。
「それなのに、何でいきなり……」
それは、あんまりじゃないか?
「――ふふっ」
消えようとしている贄姫は、ふいに小さく笑った。
「な、何笑ってるんだよ?」
僕にそう訊かれて、顔を上げた贄姫は、優しく儚げな笑みを浮かべていた。
「ふふっ、まったく……九十九は優しいな……。でも、仕方のない事なのだ……それに――」
安心させるような、深い慈愛に満ちた声で
「それに……少しホッともしているのだ。これで生きながらえなくてもいい……いつ終わるか分からない自分の生を……何度も投げ出したけれど、投げ出す事さえ出来なかった、この苦しみから、やっと私は解放される……そう思うと不思議と、悲しいというよりも、やっと終わったという安堵のほうがおおきいのだ……」
「そ、それは…………」
贄姫に、そう言われてしまっては、僕も黙るしかなかった。
「だから、お前が何かを気に病むようなことも無いし、いつかはこうなる事だっただろうし、私自身も、これを願っていたのだ。そりゃ少しくらいは寂しいかもしれないけれど、それだけのことだ」
一転、贄姫はわざとらしいくらいに明るくそう言うと、スタスタと屋上の端に歩いていく。
贄姫の言葉に、僕はハッとした。
そうか、僕がさっきから何故、苛立っているのか、一体何に苛立っているのか分からなかったけれど、それが今、分かった。
僕は、僕のせいで贄姫が消えることになったのが、許せないんだ。
その気持ちが、こうして贄姫に向かって声を荒げさせているし、きっとその気持ちは僕自身を責めているのだと思う。
だけど、どうしろっていうんだ?
「贄姫、僕は……」
屋上の端に立つ贄姫の横に並んで、僕は声をかける。いや、かけようとしたけれど、どう声をかけたものか分からず、僕は出かかった言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、こうだ。
『僕は、お前に何をすればいい?』
その言葉は、相手を慮った言葉のように耳を打つだろうけれど、その実、自分の罪悪感、失敗に対する慰めにしかなっていない。
なぜなら、僕はもう贄姫には、何も出来ない。何かをしたところで、僕が贄姫を救うことなんて出来やしないんだ。
それなら、何故、この言葉が口をついて出てくる?
それは、ただ、自分が許されたいだけの自己中心。
それは、ただ、自分が許されたと思いたいだけの自己欺瞞。
許しを請うことで得られるのは、自分で自分を許すための理由しかない。
それなら、何も言えないだろ……。
「……手を――」
隣に立つだけで、何も話すことのできない僕に、贄姫は、
「手を、握ってはくれないか……?」
そう、静かに告げる。
おずおずと差し出された、その白い小さな手は、今にも消えてしまいそうで、弱々しくこちらに伸ばされる。僕の心が、伝わってしまったのだろうか?贄姫は、自分から僕にして欲しい事、今の僕に出来る事を教えてくれた。
「手、手を握ればいいんだな?」
僕は、まるでその優しさに縋るような気持ちで、そっと包むようにその手を取る。
小さく震えているその手は、僕の手の中に納まった。
反対側が透けて見えるほど、消えかかってはいるけれど、その手には意外なほど実感が残っていて、しっかりとしたぬくもりがあった。
「こ、これでいいのか……?」
「うん、そのまま……少しだけでいいから、そのままでいて……」
僕の問いかけに答えるように、贄姫は指先にきゅっと力を入れて、僕の手を握り返す。
「やっぱり、怖いものなんだな……自分が消えてしまうというのは……」
朝日が透けるほど、薄くなった贄姫は、そう言うと力なく笑った。
「それでも、お前にこうやって手を握ってもらったら、随分と気持ちが落ち着いてきたみたいだ……だから、こうやって……私が消えるまで、こうやっていてくれないか……?」
弱々しくそう訊ねる贄姫に、応えるようにその手を強く握り返す。
その顔を覗き込むと、贄姫も同じことを考えていたようで、目が合う。
贄姫は目を細めて微笑む。
僕に微笑んで見せて、贄姫は視線を前へうつす。
僕もそれにつられて、前を向く。
「――っ……」
思わず息を飲む。
「…………すげえな」
口をついて出てきたのは、そんな何の飾り気も無い言葉。
そんな僕の横では、上ろうとしている朝日に照らされた贄姫の頬を、光の筋が流れ落ちる。
「この世というものは、こんなに綺麗で、こんなにも輝いていたんだ……」
僕らの眼下には、今まさに目覚めようとしている街並みが広がっている。
朱色から橙色へと、暖かく空を染めて、太陽が顔を出そうとしている。その光を受けて、家々が、川が、木々が、キラキラと輝いている。山から流れ出た朝もやは、街を優しく包むかのように広がっていく。
耳を澄ますと、朝の胎動というか、命の息づきとでもいうような、ざわめきが感じられる。鼻腔を満たすのは、湿り気を帯びた、冷ややかでそれでいて清々しい朝の空気。
「朝は、久し振りだから……ほんと綺麗……」
その美しさから目を離せずに、僕は朝の街並みを見つめたまま、贄姫の呟きに相槌を打つ。
「ああ、そうだな。本当に綺麗だ……」
「こんな綺麗な景色を見れたのも、お前のおかげだな、九十九……」
「別に、僕が何かしたわけじゃないよ……」
照れ隠しに、僕は言葉を続ける。
「そもそも、僕たちが見ていようがなかろうが、変わりなくこの世界は、もともと美しいものなんだよ」
「ははっ、そうかもしれないな……」
僕たちはその美しい世界を、屋上で並んで手を繋いだまま眺めている。
「でも、やっぱりお前のおかげだ……だから、お前にはさようならじゃなくて、こう言うのが正しいんだろうな……」
小さく息を吸う音が、横から聞こえた。
少しの、躊躇うような沈黙の後、
「…………ありがとう」
その言葉を残して、僕の手の中のぬくもりが消えた。
「贄姫っ!」
横を振り向くけれど、そこにはすでに贄姫の姿はなく、ただ、金色に輝く粒子が、残滓のように漂っているだけだった。
「ありがとうって、なんだよ……柄にもないこと言ってんじゃねえよ……」
僕は力なく笑うと、もう届かないだろう悪態をつく。
そして、いまだに夜の名残が残る、群青の空に舞い上がる、贄姫の残り香のような光の粒を、僕はその最後の一つが消えるまで、いつまでも、いつまでも見送ったのだった。