幕 裏『始動』
がんばっていきます
シオンを見送ったシアはその後、アンジェと二人で家事をこなして、少年が帰宅するのを待っていた。現在の時刻は午後三時を少し回ったところ。シオンも、あと一時間もしないうちに帰ってくるだろうから、そろそろ、夕飯の準備を始めるにはちょうどいいかもしれない。
「アンジェちゃん。そろそろご飯の支度始めよっか。どうせ買いものにもいかないといけないしね」
「そうですね……でもその前に、雨が降りそうなので、先に洗濯物を取り込んでしまいましょうか」
「うん、わかった」
長く伸びた銀髪がとても似合う少女は微笑みながら、ベランダの方へ歩いている。シアは、そんなアンジェの後ろ姿を見つめながら、ふと気になっていたことを思い出す。
「ねぇアンジェちゃん」
「はい? なんですか、シアさん?」
「アンジェちゃんって、いつからミルファクの家に来たの? 私が昔ミルファクの家に居た時には、まだ居なかったよね?」
アンジェ・ミルファクという少女が養子で、シオンの義理の妹だということは再会したときに説明を受けている。けれど、自分が十年前あの家にいた時には、まだアンジェは居なかったはずだ。だから、それが気になっていた。
「えっと、いつ頃だったでしょうか……。兄さんが十歳ぐらいのときですから、六年ほど前でしょうか」
「ということは、ほとんど私と入れ替わりってことかぁ……。うーん、残念。小さいころのアンジェちゃんも見たかった!」
「……そんな、綺麗なものではありませんよ、あの頃のわたしは」
と、アンジェは少し顔を伏せ気味になりながら、けれど小さく笑みを浮かべ、呟く。
「ごめんなさい、シアさん。あのときのことは、あまり思い出したくないんです」
「――うん、ごめんね。思い出させちゃって」
深刻な顔をしながら言葉を紡ぐアンジェの表情に、シアはそんな言葉しか言えなかった。
思えば、この二週間アンジェと共に過ごしてきて、シアは目の前の少女のことをほとんど知らなかった。
料理が得意で、冷静な見た目に反して意外と負けず嫌いだったり、魔術の腕は平均より少し下といったレベルだったり、そして本人は――それと、シオンも――気付いていないと思うが、シオンのことを健気に慕っている。もともと赤の他人同士だったというのに、いまでは関係がそこまで変化しているのだから、アンジェにとってシオンは大事な存在なのだなということがわかる。
けれど、わかるのはそういう見た目に表れていること……そんな、表面的なことしかわからない。
アンジェ・ミルファクという少女の、本当の一面を知らない。
「…………、」
大きく、深呼吸。気持ちを切り替えて、
「……おりゃっ!」
「きゃうっ!?」
俯いていたアンジェの両頬を手で挟む。きめ細やかな肌の感触が割と気持ちいい。
「ふぁ、ふぁにひゅるんでふかぁ!?」
両頬を手で挟まれているせいか、何言っているのかよくわからないが、たぶん「何するんですか」と言っているんだろう。
「何って、アンジェちゃんがいつまでも下を向いているからだよ。そんな暗い顔しちゃだめでしょ?」
「――――」
「私のせいで思い出させちゃったのは謝るよ。ごめんね? でも、だからこそ、アンジェちゃんには笑ってほしいんだ。きっと、アンジェちゃんはいま、幸せだろうから。私のせいで不幸を感じてほしくない」
暗い表情から垣間見えた、アンジェの過去。彼女が話さずとも、彼女の過去は、シアが想像するより昏いモノだろう。
――だから、私なんかのせいで、そんな過ぎた過去のことを思い出してほしくない。
両手を離す。そしてそのまま、アンジェの頭に手の伸ばし、撫でる。
「……ズルいです、シアさんも、兄さんも。年上だからって、いつもお兄さんお姉さんぶって」
ポツリ、と漏れるアンジェの呟き。
「妹は兄や姉に甘えるものなんだよ」
もっとも、自分は本当にそうなのか全く知らない。すべて、知識でしか知らない。
与えられる愛を知らなければ、愛の与え方も、知らないから。
「――ほら、アンジェちゃん、さっさと済ませよ? シオンくんが帰ってきちゃう前に、ごはんの準備をある程度進めておかなきゃ」
アンジェの頭から手を離して、微笑む。アンジェも先ほどとは打って変わって「はいっ」と答え、外に干してある洗濯物を取り込むため外に出る。
冷たい空気が、頬を撫でる。昼間はあんなに晴天だったというのに、空を見上げればそこには灰色の雲が一面広がっていた。
「雨、降りそうだね」
「はい……。シアさん、わたしこれ取り込んだら急いで買い物行ってきますね。シアさんは、下準備を始めてくれると助かるです」
「はいはーい」
そういって、アンジェとシアは洗濯物を急いで取り込む。それが終わると、アンジェはフード付きの上着を羽織り、
「それじゃ、行ってきますね」
「うん、行ってらっしゃい」
アンジェの姿が、ドアの向こうに消えていく。
そして訪れる、静寂。先ほどまでここに在った隣人の気配は、跡形もなく無くなっている。
ソファの上に腰を下ろす。ほう、と一息ついて、意識を内側へ向ける。
(――いつか、)
いつか、あの少年と話をしないとな、と思う。
十年前、不可抗力だったとは言え、突然目の前から姿を消してしまったときは、ただただ申し訳ないと思うと同時に、彼に謝りたかった。
あの日、幾つもの星々が光る夜空を、二人で見上げた日。
自分の夢を――そしていまは、儚い幻想となったモノ――肯定してくれた、あの少年に、離れたあとも、ずっと会いたかった。だから、王宮から逃げ出したとき、真っ先に思いついたのは、この少年のいる場所だった。
一歳年下の、黒髪の少年の姿が脳裏に映る。
シオンは強い。自分よりも、はるかに。彼は「自分は強くない」と言ったけど、それでも己の過去と向き合おうとする彼は、誰よりも強いだろう。そして彼は、今日自分の過去に終止符を打ってくる。そんな確信がある。
だから私は、勝利を得た彼を、笑顔で迎えてあげよう。
「……さて、そろそろ始めよっかな」
ソファから立ち上がる。キッチンの方へ足を向け、一歩踏み出したとき、
「――ッ!?」
破砕音が、聞こえた。
窓ガラスを突き破る音。豪快に割れた窓ガラスの破片が部屋中の至る所に散らばっている。
そして、つい先ほどまでシアが座っていたソファの背もたれに突き刺さる、一本の『矢』。
「矢……?」
なんで矢が、と理由を考え始めたとき、
「――……ぁ」
身体が、崩れ落ちた。
(なに。なん、なの……ッ!?)
左腕に何かが刺さったような感触。しかし身体は動かない。ならば、と。眼球だけ必死に動かし、視線だけで確認しようとする。そこで、眼に捉えたのは。
(また、矢……っ!)
先ほどソファに突き刺さった矢と、同じ矢だった。
――誰かに襲撃された。その考えに至ったのは、まさに二本目の矢を認識したその瞬間だった。
自分を狙う理由なんて山ほどある。おそらく、シーベールの人間……それも、シアを連れ戻そうとする側の者だろう。ここ二週間、なんの音沙汰もなかったが、どうやら諦めたわけではなかったらしい。
(お願い……だれか、気づいて……!)
身体は動かないため、自分では助けを呼べない。だが幸運にも、一本目の矢は大きく破砕音を立ててこの部屋に侵入してきたのだ。隣家の人、とまでは行かずとも、少なくとも通行人くらいは気付くはず。
なら、まだ望みはある。
「望みなど、期待するだけ無駄だぞ、シア・シーベール」
――そう、思っていたのに、聞こえてきたのは酷く冷徹な声。
硝子を踏み割る音。パキッ、パキッと、綺麗な音を立たせながら、その人物はシアの前に立った。
「だ、れ……?」
声を発するも、その感覚がひどく曖昧だ。どうにかして姿を見ようと視線を動かすが、結果は無駄に終わった。
「ぁ……」
そして、耳に入ってくる激しい雨音。これだけ激しければ、誰も外なんて出歩かないだろうし、ましてや数十メートル離れた隣家に、破砕音など聞こえてこないだろう。
だんだんと、遠のいていく意識。何もできないまま、無抵抗に、シアは何者かに身体を担がれる。
「――対象を確保した。テオ、良い狙撃だった。このままジーク達と合流する、町の外で落ち合おう」
独りごちる、何者かの声。
その意味を、理解する間もなく、シアの意識は途切れた。
***
「ただいま帰りましたー、シアさん」
「大変でしたよー。急に土砂降りになって、服がびちゃびちゃになっちゃいました。でも安心してください、食材は無事です!」
「もー、居るんだったら返事くらいしてくださいよ、シアさ……」
「シア、さん……?」




