豪徳寺ありさ
ありさが入寮したのは随分前、三月の半ばだった。
中学の卒業式を終えたその日に入寮したのは、仲の良かった友達への未練を断ち切るためだった。
それから二週間ほどがたったが、ありさのルームメイトはまだ現れない。
このまま誰も来なかったらいいのに、とありさは切実に願った。
日本でも指折りの旧家である豪徳寺家の長女として、ありさは学園にやってきた。
今年度の入学生で、ありさより格上の家の子女はいないと聞いている。
だが、ありさは生粋のお嬢様育ちではない。
ありさは豪徳寺家正妻の子供ではなかったのだ。
一応『子』としては認めてもらっていたが、これまでのありさは存在のない存在だった。
正妻の子である兄が、幼いころから有名私立校に通い、頻繁に社交の場に顔を出すのに対し、ありさは公立校に通い、表に顔を出すことは全くなかった。
ありさ自身、自分がお嬢様だと思ったことなど一度たりともない。
反対に、自分は使用人として、豪徳寺の家に一生仕えていくのだと思い込んでいた。
それが中学卒業を間近に控えたある日。
いきなり豪徳寺家の長女として学園に行くようにと言われたのだ。
驚いたありさだったが、拒否することは許されていない。
短い期間にお嬢様教育を施され、ありさは学園にやってきた。
だからありさにとってルームメイトの存在は脅威でしかない。
学校の中だけだったら、この付け焼刃のお嬢様も通用するかも知れない。
だが部屋に帰ってきてまで、お嬢様を演じ続けられるだろうか。
鋭い人なら、ありさがニセお嬢様だということを簡単に見破ってしまうだろう。
そういうわけで、ありさは誰もいない共有スペースで、一人悶々としていた。
もう入学式は目前だ。
もしかしたらルームメイトはもう現れないのかも知れない。
本当にそうだったら。
その時。
かちり。
ドアの辺りで固い音がした。
息を詰めてありさが見守る中、ドアがゆっくりと開いた。
ドアの向こう、薄暗い室内に日本人形が立っていた。
咲弥はぱちぱちと瞬きをして、手元にあった照明のスイッチを入れた。
「きゃっ」
急に明るくなった室内に、日本人形の小さい悲鳴が響く。
咲弥が日本人形と思ったのは、黒々とした長い髪の小柄な女の子だった。
眉の上でぱつんと切りそろえられた前髪。
その下で大きく見開かれている黒目がちの大きな瞳。
白磁のように白いつややかな肌と、黒のコントラストが絶妙に美しい女の子だ。
「どうも。こんにちは」
とりあえず挨拶してみる。
「ななななんで男が……」
彼女の慌てぶりから、やはり男に間違われているようだ。
咲弥は出来る限り優しく微笑み、彼女の間違いを訂正した。
「いや。俺こんな恰好してるけど、女だから」
にこにこにこ。
敵意はないよー。
とりあえず微笑む。
すると彼女は何とか平静を取り戻した。
「そ、そうね。確かに、男子がここに入れるわけないんだし……。でも、俺??」
なにか腑に落ちない様子で首をひねっていた彼女だが、急にはっと我に返った様子で居住まいを正した。
「わたくしは豪徳寺家の長女、豪徳寺ありさですわ。どうぞよろしくね」
なぜだろうか。
急に雰囲気の変わったありさに、咲弥は小さく首を傾げる。
まるで学芸会のように感じるのは気のせいだろうか。
「豪徳寺家のことはご存じでしょうね?」
「ああ、いや。ごめん。知らない」
「え!? 豪徳寺家を知らない、ですって!? あなた、一体どちらの方かしら」
「俺? 俺は山田家の長女、山田咲弥だ」
「山田……?」
なんとなく、ありさの調子に合わせて自己紹介してみると、ありさは眉間にしわを寄せ、必死に何かを思い出そうとする。
だが思い出せなくて当然だ。
咲弥の家は特別に有名な家ではないのだから。
「山田というのは、田舎の寺兼道場をしている家だ」
「寺……? 道場……」
「まあつまり普通の家だということだ」
咲弥がそう言うと、はっとありさの目が見開かれた。
「あ、あなた、まさか特待生ではなくて!?」
「あーそうそう。それ」
「まあっ。なんということでしょう。豪徳寺家の長女の部屋に、特待生が出入りするなど、わたくし聞いておりませんわ」
なにやら一人芝居を続けているありさの向こうにドアが見えた。
どうやら私室もあるようだ。
「こっちが俺の部屋?」
まだなにか言い続けるありさの横を通り抜け、ドアを開ける。
「ああっ! そこは!!!」
「わ」
開けた途端ピンクの洪水が咲弥を襲った。
レースにフリル、ふわふわのぬいぐるみ。
ここはありさの私室のようだった。
背後では、顔を真っ赤にしたありさが、きゃんきゃんと何やら騒ぎたてていた。
「ごめんごめん。可愛い部屋だね?」
くるりと振り返った咲弥は、頭一つ分低い所にある、ありさの頭をぽんぽんと軽く叩きながら謝り、ひょいと彼女の顔を覗き込んだ。
見る見るうちに、ありさの首筋から指先まで真っ赤に染まっていく。
なにこのかわいいの。
根っからの可愛いもの好きの咲弥の血が騒いだ。
家でも弟の頭をよく撫でまわしたものだ。
「ほんと、可愛いね」
「~~~~~~」
完全に固まってしまったありさの頭を、咲弥は思う存分撫でまわしたのだった。