65. セカンド・フェーズ
薄暗い食堂で、窓の方に目をやり、視矢は一旦話を止めた。
窓ガラスにぽつぽつと当たる丸い水滴がだんだん広がっていく。大雨になる予感に、少しだけ眉を寄せた。
雨は昔から苦手とはいえ、ライフラインが覚束ないこの避難所では恵みの雨でもあり、降らなければ飲み水に困る。
「……その、ごめんなさい。嫌な事思い出させて」
辛い過去を蒸し返してしまったと思ったのだろう。じっと耳を傾けていたみつるが、申し訳なさそうな表情で手元に視線を落とす。
視矢と邪神との経緯は資料で読んで知っていたが、本人から聞くとやはり壮絶だ。
「ほんとになー。男だって知らずに惚れてたんだぞ、俺は。長い間トラウマだった」
視矢はあえて論点をすり替え、腕を上げて大きく伸びをした。
みつるがきょとんとすると、「ナイのことだろ」と笑って見せる。
当時の出来事は、視矢にとって古傷のようなもので、今更傷口が開くことはない。
そもそも家族が殺されたあの日から既に五十年以上経っており、普通の人間の思い出話とは訳が違う。
「ナイは、昔っから性格悪くてさ。ま、ある意味、人間ぽかったのかもな」
勢いで持ち出したナイの話に思いがけず興が乗った。
初めて会った時、セレナという女性の姿を取っていたナイ。笑い話のような大昔の失恋は、今となっては恥ずかしくも懐かしい。
「視矢さん、どうやってそのトラウマ克服したんですか?」
「そりゃ、新たな恋のおかげ」
「わ、素敵ですね」
年若い少年は、冗談めかした視矢の言葉に声を弾ませる。
(ツッコんでくれって)
視矢は顔を伏せ、額を手で押さえた。
決して嘘ではないけれど、恋などという台詞を素直に受け止められては、言った方が面映ゆい。
「その人って、もしかしたら……」
「あとあと」
それ以上の追及を退け、視矢は椅子から立ち上がった。
食べ終えて空になったプレートを少年の分まで片付け、さっさと食堂を出れば、思った通りみつるも後を付いてくる。
「食堂で待ってな。戻ったら、話の続きしてやっから」
「僕も行きます」
「雨漏り直しに行くだけだ」
「知ってます」
追い払おうとしても、みつるは頑として離れない。勘のいい少年は、気付いているらしい。
風雨が強まるにつれ、避難所の人々が一人二人と食堂へ足を運ぶ。非常灯が照らす通路ですれ違う者は皆怯えた表情をしていた。
ビル全体を覆う結界は均一ではなく、どうしても手薄な箇所ができる。
雨の日は結界が弱まるため、活発になった水の従者に建物内部へ侵入されてしまう。特に夜はできるだけ明るい場所に集まり、万が一に備えるのが最善だ。
「今回は、どこですか?」
「地下の機械室」
地下へ降りる戸口は、普段は鉄製のドアで閉ざされている。
視矢はかんぬきを外し、暗がりをものともせず階段を下りていった。みつるも壁に手を付きながら、置いて行かれないよう追い掛ける。
滅多に人が立ち入らない地下には、ビル内の空調管理設備の他、用途不明の大型コンピュータがあった。
手術台らしきものまで備え、ただの機械室とは様相が異なる。機器類はどれも埃にまみれ、電気が通ったとして現在も動くのか定かではない。
「ここ、なんだか秘密の研究室みたいですね」
「実際、そうだったんじゃねえの」
初めて来たみつるは、物珍し気に機材を見回している。
視矢は手術台を横目で眺め、嫌そうな顔をした。この場所がかつて何に使われていたのか正確には知り得ないものの、どうせろくでもないことだと想像がつく。
地下室の天井は、蜘蛛の巣が張っている程度で、さすがに雨水は落ちてこない。だが雑然と置かれた機器の陰に、黒い生き物がぶよぶよと蠢いていた。
(一体だけか)
手早く結界を張り直した後、視矢は周囲の気配を探った。他に従者の姿はなく、意図的に侵入したというより迷い込んで結界の空隙にはまったようだ。
大戦の後、邪神に魂を売り従者となった人間は少なくなかった。知性も自我もなくした者に憐れみを掛ければ、逆に殺される。これまで飽きるほど学んできた鉄則だった。
冷たい眼差しで視矢が従者に向けて腕を伸ばした時、みつるが遮るように前に出た。
「……おい」
「単体なら、やれます」
みつるは、いつも用いるアサルトライフルを携帯していない。旧政府の遺品であるその武器が従者にも有効なおかげで、人間は辛うじて邪神の完全支配を免れている。
丸腰のまま、少年は両手で宙に文様を描き、印を結んだ。
もぞりと動いた触手がみつるに襲い掛かる前に、淡い光が従者を包む。
(すげえな)
黒い異形が見る間に人に変わっていく奇跡を、視矢は感嘆の思いで見守った。
本来従者を人間に戻す術などあり得ない。みつるだけが、本当の意味で魔に冒された魂を救える。この少年が人類の救世主とされるのは、それゆえだ。
光の洗礼が終わると、床には丸くなって眠る裸の少女の姿があった。まだ十歳程の年端もいかない少女はあどけない表情で安らかに寝息を立てている。
親が信者の場合、己の子供を従者にするケースが多い。邪神への供物のつもりか、子供の命を守る苦肉の策か、いずれにせよ両親はもはやこの世に生きてはいまい。
視矢は着ていたジャケットを脱いで少女の体を覆い、腕に抱き上げた。外傷はないので、そのうち目覚めるだろう。
「大丈夫か」
少女から視線を上げ、気遣う言葉をみつるに掛けた。
はい、と小さく返事をし、少年は辛そうに壁に背を預けている。
「ほら、とにかく休め」
視矢は手術台の上に少女を下ろして自らも腰掛けた。自分の隣をとんとんと示し、みつるに座れと促す。
「何にもならない。一人助けるのに、このザマじゃ……」
「十分だ。どうしたって、キャパオーバーなんだよ」
みつるの疲労ぶりは並大抵ではない。無理をする少年を見かね、幾分強い口調でたしなめる。
魔を祓うことは、邪神との血の契約を外部から断ち切ること。邪神に干渉する以上、身体にも精神にも相当の負荷が掛かる。
破魔の力を使うたび、みつるの命が削られていく。すべての従者を救うなど不可能な話だ。
「それよか、この子、唯一の女だからな。これから男どもに注意しとけよ」
みつるの背を叩きつつ、まだ意識の戻らない少女の方に視矢が顎をしゃくった。
「……どういうことですか?」
「種族保存の本能ってやつ。不埒なこと考える男も出てくるかもしんねえ」
「女って……。まだ、子供ですよ」
「俺だって、ロリコンじゃねえけどさ」
視矢は誤解するなよ、と苦笑して、少女を包んだ上着の乱れを直してやる。
幼い娘のあられもない姿に、哀れを誘われることはあっても、おかしな気持ちにはならない。けれど人はすぐ成長する。
少女が女になった暁には、男たちの間で大なり小なり何らかの争いが起こるに違いない。
もっとも、それまでに人間が滅びていなければの話だが。
(厄介だよなあ)
外の音が届かない地下にいても、視矢には湿度の上昇で雨の様子が分かった。
雨が降れば水が手に入る半面、従者の脅威が増す。同様に、女がいることで人間の生存の道が開かれ、一方で新たな火種が生まれる。
あらゆる事が、一筋縄ではいかない状況だった。




