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逃げる以外に道はない  作者: イングリッシュパーラー
第3章 風と土編/原罪
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61. 予兆

 例年より梅雨時の雨が多いせいで、道路工事は作業の工程が大幅に遅れていた。

 しわ寄せは直接現場に及び、過酷になったノルマに音を上げて同期のバイト仲間は視矢の他に誰一人残っていない。


 加えて、先週の土曜の夜を最後に現場主任までも連絡が取れなくなった。

 髭面の主任はこの道十何年というベテランで、無断欠勤は一度もない。何かあったのではないかと作業員たちは訝しんだ。


(まさか、な)


 主任の不在に視矢は胸騒ぎを覚えた。木刀が掘り出された日以来、当事者が行方不明になったなど、偶然にしては不吉でとても心穏やかではいられなかった。


 主任はどうしたのか。思い巡らせても無論答えは出ない。

 木刀を主任から預かったことは他の作業員も知っているとはいえ、言ったところでそれが何だという話だ。懸念を追い払い、視矢は雨でぬかるんだ地面を黙々と一輪車を押し続けた。


 いつも通りバイトを終えてから、ぐったりして夜遅く家へ戻る。熱い風呂で汚れと汗を洗い流しても、滅入った気分は晴れなかった。

 自室に戻った後、立て掛けてあった木刀を手に取りそのままベッドの上に持ち込んで胡坐をかく。


(さて、どうすっか)


 両腕を胸の前で組んで木刀に目を落とした。セレナと出会い、当面木刀は返さないつもりでいたが、どうも状況が変わってきた。

 今週末は家族とホタル狩りに行かねばならないし、父親に木刀の件を問いただされるに決まっている。やはりその前に手放した方がいいかもしれない。


「お兄ちゃん! お兄ちゃん、開けて! 起きてるでしょ」

「……真奈?」


 頭を悩ませていると、ドアの外で真奈の押し殺した声が聞こえた。ドアを開けた途端、真っ青な顔で妹が部屋に飛び込んで来る。


「どうした!?」


 妹のひどく怯えた様子を見て、視矢の背に冷たいものが走った。


「く、黒いのが、部屋に……」

「黒いの? ああアレか」


 何事かと身構えたものの、肩透かしを食った。察するに、恒例の夏の風物詩が現れたのだろう。

 違うよ、と必死に訴える妹に、兄は唇に指を当て、声を潜めるよう忠告する。眠っている両親を起こしたくはない。


「黒くてウゾウゾしたのが、床から浮き出て来たの。ブヨブヨ動いてて、すごく気味が悪くて……」


 真奈はおそるおそる背後を振り返り、震えながら話す。心底怖がっているのは見て取れるが、内容は一向に要領を得ない。


「ここで待ってろ、見て来てやっから」


 視矢は妹の背を撫でてやり、ひとまず落ち着かせた。普段は威勢がいいのに、子供の頃から真奈は怖がりなところがある。


 目の前にあった木刀を武器代わりに持ち、視矢は隣にある妹の寝室へ入った。注意深く見回しても、電気が付いたままの室内に特におかしなものは見当たらない。

 しかし部屋の一角に近付いた際、ふと違和感を覚えた。そこだけ、空気が淀んでいるように重苦しい。


「……っツ!」


 手にした木刀の先端がフローリングに触れた瞬間、思わず呻いて右手首を押さえた。

 木刀と床の間でパチリと火花が散る。前回にも増して強烈な痺れが腕に走り、血管が激しく脈打った。


(なんだ、これ)


 空気の淀みは床に黒い染みとなって広がった。けれどそれもほんの一瞬で、潮が引くようにすっと消えた。錯覚だったのかと疑ってしまう程、わずかな異変だった。

 黒いものが現れた場所を木刀で軽く叩いてみても、もう何も起こらない。違和感もなくなっていた。


 鳥肌の立った腕をさすり、無意識に詰めていた息を吐く。

 自分が何を見たのかはっきりしない。ただ、それがこの世のものでないと確信できた。


「お兄ちゃん……?」


 いつの間にか後ろにいる真奈が、視矢の服の裾を引っ張った。

 先程の異常には気付かなかったらしく、どうだった、と心配気に尋ねてくる。


「何もなかったよ。大丈夫だから、早く寝ろ」

「……うん」


 不安を残しながらも、真奈は素直に頷いた。兄が言うなら大丈夫。そんな絶対的な信頼が心の中にある。


「怖いなら、お兄様が添い寝してやろう」

「結構です!」


 いそいそとベッドに入ろうとする兄を妹は部屋から追い出した。

 鼻先で勢いよくドアを閉められ、視矢は部屋の外で苦笑する。ようやく真奈も元気が戻ったようだ。


 視矢はしばらくの間、静かな廊下の壁に寄り掛かり周囲の様子を窺った。妖の気配がないことを確認してから、木刀を軽く振り下ろす。

 妹の部屋にいたのは、大して力のない魔性の小物。妖は木刀の桁違いの邪気に恐れをなして退散した。

 幸か不幸か、父と同じく視矢はそういった手合いの気を感じ取れてしまう。


(ほんと、どうすっか)


 仮に木刀が妖を呼び寄せたにせよ、木刀のおかげで助かったとも言える。セレナに渡すべきか、バイト先に返すべきか、いずれにしても視矢に扱える代物でないのは確かだ。






 手作り洋菓子が美味しいと評判を呼び、平日の午後にも関わらずオーガストのテーブル席はほぼ埋まっている。空いている場所を探しながら、視矢は窓際のテーブルに目を留めた。

 歩道から丸見えになるため敬遠されがちなそこには、思った通り彼女の姿がある。


「相席、いい?」


 傍まで歩いて行き、返事を待たず向かい側に腰を下ろした。

 セレナは相席に関心を示さず、終始外の通りに目をやっている。テーブルには食べ終えたパフェのグラスが置かれていた。

 視矢は同じものを注文し、彼女の視線の先を追った。向かいの建物は今日も工事中で騒々しい。


「この店、デザート色々あるじゃん。毎回目移りしてさ」

「どれもそこそこ美味しいよ。ボクの一番はマーマレードだけど」

「へえ」


 無視されるかと思ったのに、セレナが反応してくれたことがなんだか意外で嬉しかった。

 こうして会話をしていると、デートのような気分になる。


 やがて運ばれてきたフルーツパフェは、下の方にマーマレードがたっぷり詰まっていた。セレナはパフェが気になるらしく、グラスを横目で窺っている。物欲しそうな視線に頬が緩むのを堪え、視矢はなんでもない世間話を振った。


「あそこ、前は古本屋だったんだ。今度は何になるんかな」


 首を傾げて窓の外の通りの向こうを指差す。

 小さな古本屋はひと月前突然閉店し、工事が始まったのは最近だ。店番をしていた店主の老人とは時々話をすることもあったので、亡くなったと聞いた時は寂しく感じた。


「教団事務所になるんだよ、クトゥルフ信仰の」

「は?」


 意外な言葉に視矢の口がぽかんと口を開く。返事が返ってくると予想しなかった上に、次に来る建物が馴染みのない教団事務所となれば驚いてしまう。


「あのオジイサン、年季の入った信者だからね。儲からない店を畳むのに、ちょうどいい頃合いだと思ったんでしょ」

「待て待て。じいさん、亡くなったんだろ」

「その辺は、ライに口止めされてて言えない。企業秘密だってさ」


 セレナはやけに情報に通じている。木刀の件にしても、普通ならバイト先の内々の事を部外者が知り得るはずがなかった。何らかの方法で調べているに違いない。


「……もしかして、探偵とかやってんの?」


 眉を寄せて問うと、彼女はまあね、と曖昧に肯定した。当人に小首を傾げられたのではなんとも疑わしいけれど、似たような仕事なのだろう。


「木刀を持ってるせいで、アンタはマズいことになってる」

「そんなヤバいものなんか、あれ」

「異界の門を開くからね」

「へえ」


 視矢は不可解な説明を話半分に聞きながら、スプーンでパフェの底を掬った。

 真奈の部屋に現れた正体不明の妖や、古本屋の跡地に入る怪しげな教団の狙いが木刀だということは理解した。それでも異界がどうのというのは、あまりピンと来ない。


 クトゥルフなるものは恐ろしい水の邪神で、その信者は反社会的な思想を持つと言う。彼女がいつもオーガストの窓際のテーブルに座るのは、向かいの建物を見張るため。

 そんな現実離れした説明を、視矢は風変わりな彼女の単なる空想話としてとらえた。


「ボクの依頼主が木刀を処分する。悪用はしないから、信用していいよ」


 セレナは誰かの依頼を受けて動いている。バイト先に現場主任がいなければ木刀を返せない。ならば何にせよ、処分してくれる人に渡すのが一番いい。面倒事になる前に。

 

「……分かった。今度の金曜日に持ってくる」


 セレナを信用すると決めてそう告げた。木刀自体に思い入れはないし、異界の門にも興味はない。


「その先も、また会えるかな」

「多分ね」


 最大の気掛かりは、これからも彼女との関係を続けられるか否かだった。返された言葉は素っ気なかったものの、拒否ではない。

 それに気を良くして、視矢はレシートを握り締めレジへ向かった。自主的に二人分のパフェの代金を支払う彼の様子を、セレナは面白そうに眺めていた。

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