46. 予期しない邂逅
破魔の力のトレーニングは、体と心の両面で行われる。初めは手合わせ、次に瞑想とイメージトレーニング、そして気功。メニューの時間配分は、その日の私の状態に合わせてソウさんが決める。
手合わせの段階で、こちらの体調や精神状態を見抜いてしまうのだから、やはり導師としても優れているんだろう。
週二回午後からの数時間だけとはいえ、トレーニングは容赦なく、身体も精神もくたくたになる。
最初こそ、お茶の時間は必要なのかな、と首を傾げたけど、疲れた時の甘い物の有難みを実感した。トレーニングの合間の休憩時間にソウさんの手作りお菓子があると、リフレッシュできるし、頑張らなきゃと気合が入る。
「ソウさんて……、アメとムチを、心得てるよ、ね」
手合わせ終了とともに、私は床にへたり込み、酷使した脚の筋肉を揉んだ。完全に息が上がり、言葉は途切れ途切れにしか出て来ない。毎回手合わせでは手も足も出ないほどへこまされ、体力が完全に尽きる。初日はあれでもかなり手加減してくれていたらしい。
「誉め言葉として受け取っておく」
相変わらず息一つ乱さず、師匠さまは口の端を上げた。
ソウさんは厳しい反面、優しい。TFCまで電車で来るのは大変だからと、事務所に迎えに行くとも言ってくれた。でも、さすがにそこまで甘えるわけにはいかない。私は電車に乗るのも鍛錬のうちと主張して、丁重にお断りした。
そんなこんなで二週間。TFCのオフィスビルも何回か訪れれば、建物の中は大体把握できる。もちろん立ち入れない場所はあるとしても、給湯室など一般的な設備は使えるし不便は感じない。
「あれ、小夜?」
早く着き過ぎて休憩室で休んでいた私は、不意に聞き慣れた声で名前を呼ばれ、びっくりして振り返った。休憩室の入り口から、予想通りの声の主が顔を覗かせている。木刀を小脇に抱えた視矢くん、そして傍にはシンさんの姿もあった。
「今日、トレーニングの日だっけか」
「あ、うん。視矢くんたちは?」
「ちょい、用事があってさ」
変わらない明るい笑顔で、視矢くんは私と向かい合わせに座る。
最近は事務所でもすれ違いばかりなのに、まさかTFCで会えるなんて思いもしなかった。面と向かって話すのが久しぶりなせいか、なんだかどきどきして視矢くんと目を合わせられない。
「小夜、今日終わるの何時?」
「六時頃かな」
「帰り、迎えに来てやるよ。シンにバイク借りるから」
言いざま、視矢くんは催促するように上向けた掌をシンさんの方へ差し出した。壊すなよ、と一言釘を刺した後、シンさんがオートバイのキーを手渡す。
「視矢くん、免許は……」
「持ってるに決まってんだろ。肝心のマシンがないだけ!」
無免許じゃないかと眉を寄せた私に、視矢くんは心外そうに声を張り上げた。
彼はいつも足で走り回っている雰囲気があるので、オートバイのイメージとあまり結びつかない。
仕事で依頼人と同行する際は、相手の車か公共の交通手段を使うことになっているし、どうしてもの緊急時にはビヤを呼ぶ。
別に不都合がなければ免許がなくても構わないと思うものの、とりわけ男の人にとって、車やバイクを運転できるかどうかはステータスの一つとして意識する部分なのかもしれない。
「でも、シンさん困るんじゃ」
「困らねえって」
ひらひら手を振って答えたのは視矢くんの方。
「高神に仕事を押し付けられたんで、俺は今日は内勤です」
「結局、俺のせいかよ」
「自覚してくれ」
半ば呆れ顔でシンさんは肩を落とした。二人のやり取りは、気心の知れた友人同士に見える。
視矢くんに『押し付けられた仕事』は、相当面倒な事らしい。資料室に籠るから、と缶コーヒーを三本買って、シンさんは先に休憩室を出た。
「シンさんとは気が合うみたいだね」
「まあ。TFCにしたら、な」
言葉は素っ気なくても、視矢くんがシンさんを気に入っているのは態度から明らかだ。ソウさんとだったら、こうはいかない。
シンさんが出て行った後、私と視矢くんは同時に休憩室の時計に目をやった。悲しいことに、時間は無情に過ぎる。
「じゃ、小夜もがんばれ。六時に、入り口辺りで待ってるな」
「うん……、気をつけて」
椅子から立ち上がり、待ち合わせの約束をして、互いに行くべきところへ向かう。私はトレーニングルームへ、視矢くんはおそらく漆戸良公園へ。名残惜しくはあっても、夜にまた会えると思えば、気持ちが弾んだ。
浮かれ気分のままトレーニングルームへ入り、道着に着替えて、まずは手合わせ。訓練メニューはいつもと変わらない。なのに、今日はなかなか瞑想に入れなかった。焦る私を見て、ソウさんが溜息を吐く。
「重症だな」
「はい……、すみません」
休憩室で視矢くんと会ったことは伝えてあった。上手く集中できないのは、高揚感が邪魔をしているせいだ。
自分の不甲斐なさが情けないけれど、頭を垂れるより雑念を払う方に意識を向ける。ソウさんだって忙しい中、わざわざ時間を割いて指導してくれているのに。
(今度こそ、やり遂げなきゃ)
大きく深呼吸して座禅を組み直す。意識下に埋もれている力の在処を探し、深奥へ潜って行く。自分の心を知り、コントロールすることが一番大きな課題だった。
結局、その日の訓練は思うように波に乗れずじまい。トレーニングルームを出た時には、十八時を二十分程回っていた。
まだ待っていてくれるか不安に思いつつ、私は急いで着替えて一足飛びに階段を駆け下り、入り口へ直行する。
壁際に立つ視矢くんの姿を見つけた時には、自然と頬が緩んだ。
「遅くなってごめん!」
「気にすんな。お疲れさん」
駆け寄って謝ると、視矢くんが労ってくれる。元気そうに笑っていても、本当は私より遥かに疲れているはず。迎えに来てもらって嬉しい反面、申し訳ない気持ちが一気に膨れ上がった。
「私は電車で帰るから、視矢くん、先に帰ってくれても」
「小夜、こっちこっち」
遠慮しようとしたこちらの言葉は見事にスルーされ、問答無用で建物の前の駐車場へ引っ張られて行く。
そこにはシンさんから借りたという青いオートバイが停められ、二人分のヘルメットが用意されていた。
「免許、いつ取ったの?」
「大学ん時」
「視矢くんて、学生!?」
「んなわけねえだろ。大昔だよ」
視矢くんはシートに跨り、乗り心地にご満悦な様子だ。
(視矢くん、二十二歳だよね確か)
ヘルメットをかぶりながら、ふと疑念が湧く。学生の頃なら、大昔と言うほど前じゃない。長く事務所に勤めていると言っていたけど、大学生だったのはいつのことなんだろう。
尋ねたい気持ちに蓋をして、私は後ろに乗って彼の腰に腕を回した。その背中は、ちゃんと温かい。
ぎゅっと両腕に力を込めた私を振り返り、視矢くんが不思議そうに首を傾げる。
「どした?」
「ううん。ちゃんと体温あるなって思っただけ」
「何当たり前のこと言ってんだか。これ、持ってて」
大事な木刀を預けられ、私は落さないよう胸に抱き締めた。その手に自分の手を一瞬重ね、視矢くんはオートバイのエンジンをかけた。
夜の闇が降りた路上を走り抜け、後方に過ぎ去る街の明かりや車のライトを夢見心地で眺める。こうして一緒にいられる時間が、ずっと続いて欲しい。
「まっすぐ小夜のアパートへ行けばいいよな」
「うん、お願い!」
行き先を確認する視矢くんに、声を張り上げて答える。風の音が大きくて、おしゃべりは無理。
TFCへ出向した日は事務所へ寄らず、直帰することになっている。アパートに着いたら、今までの分もたくさん話をしたい。
視矢くんの運転は想像していたより慎重で、オートバイはきちんと規定速度を保っていた。途中の交差点までは。
信号が青になった途端、なぜか視矢くんは突然進路を変え、脇道へ入ってスピードを上げて飛ばし始めた。
面食らう私に、視矢くんは重い声音で告げる。
「……従者だ。俺たちを追って来てる。“あいつ” だ」
最後は風の音にかき消されてしまったものの、従者という言葉は聞こえた。私には気配は感じられないが、視矢くんの緊張した様子から、尋常でないことが分かる。
暗い堤防を走り、次第に家々の明かりは遠のいていった。どうやら人のいない場所へ誘い込むつもりらしく、視矢くんは寂れた神社の前でオートバイを停めた。
常駐する宮司はおらず、昼間でも参拝者の少ないその神社は、暗くなれば完全に無人だ。
「お参りするの?」
「まさか。神なんかに、祈らねえよ」
吐き捨てるような言葉に、私は違和感を覚えた。
神社に祭られているのは日本古来の神であって、邪神とは違う。地球本来の神である旧神は、邪神たち旧支配者を封印した、いわば善神。
視矢くんは、神と名の付くものをすべて毛嫌いしてるんだろうか。
「小夜は離れてろ」
境内を急ぎ足で歩き、拝殿の前で視矢くんは腕を広げた。木刀を宙に回すと、淡い光が私の周りを包み込み結界を形成する。
それと同時に、一瞬空間が歪んだ。いつもの従者とは異なる何かの気配を感じ、息を飲む。ゆらゆら揺れる空間から浮き出るように現れたその姿に、私は愕然とした。
見覚えのある、少年みたいな青年。こんなことができるなら、この間事務所に現れた時、ドアを開ける必要なんてなかった。
「シャドウ……」
名を呟いた私をちらと見て、従者の青年は子供っぽく唇を尖らせる。
「観月を巻き込む気ないんだけどな。なんで、連れて来てるわけ?」
「ふざけんな! ずっと俺らの後付け回してたくせに。このストーカーの中二野郎が」
的外れな文句を付けられ、視矢くんは腹立たしげに木刀を突き付けた。
シャドウは視矢くんや来さんを監視し、事務所へも現れた。他の従者と異なり、人間の姿と意思を持つ特異な存在。私に接触してきたのは二度目でも、視矢くんの方は対面するのはこれが初めて。
シャドウについて詳細な情報を持っているのは、多分ソウさんだけだ。
「クトゥルフの従者に、容赦はしねえ」
視矢くんは露骨な憎しみを込め、凍り付いた眼差しをシャドウに向けた。




