35. 凍り付く傷跡
ソウさんが事務所を立ち去った後も、来さんは考え込んで眉を寄せたまま。これから忙しくなりそうだ、と視矢くんはげんなり溜息を吐いた。
「やはり、ソウが突然帰国した理由が腑に落ちない。裏がある気がする」
「だろうな」
来さんも視矢くんも、重い空気を背負っている。
「スポンサーが仕事の依頼を持って来るのは、当たり前の事なんでしょ?」
「TFC本部を通してならな。あいつが直接来るのが、うさんくさいんだよ」
二人がそんなにもソウさんを疑って掛かる理由が分からず、私は首を傾げた。確かにどこか人を寄せ付けない雰囲気があるし、何を考えているのか掴めないところがあるけど、嫌な感じはなかった。
「ナイが出てくりゃ、一発で分かったんじゃね?」
「呼び掛けたが、ナイは応じない」
心の内を覗けるナイなら隠し事も探れるはずなのに、元邪神はひどく気まぐれで、興味がなければ引き籠って表に出て来ない。今回は、来さんが頼んでも無視を決め込んだらしい。
「前に、ソウさんと何かあったの?」
思い切って私が疑問を差し挟むと、視矢くんは露骨に渋い顔をした。
「あいつには関わんな。毎回毎回、ろくな目に遭った試しがねえ」
「彼は策士だ。目的の為には手段は選ばない」
ソウさんに近づくな、と二人共が口を揃えて言う。スポンサーであるTFCはもとより、担当だったソウさんとも色々因縁があるのかもしれない。
事務所は警備会社であって、本来の仕事は従者に関わった人を保護すること。視矢くんがボディガードを務め、来さんが従者の記憶を消す。おばけ公園の時のように、従者と直接やり合うケースは実際は少ない。
従者を狩るのはTFCのハンターたちで、ハンターは邪神との戦いも想定に入れて結成された、いわば超常戦力のプロ集団。従者絡みの事件が起きても、TFCが人知れず後始末をしているため公にならない。
ソウさんもその一人ということは、あの人もまた特別な力を持っているのだろう。
「とりあえず、漆戸良公園を見てくるか。小夜も連れてっていいか、来?」
木刀を肩に担ぎ、視矢くんが社長に許可を取る。既に手を掴まれている私に選択権はなかった。
「十八時までに戻れ」
門限を提示する傍ら、来さんは眼鏡を掛けてから、ソウさんが置いていったリストのチェックを始めた。
(……コンタクトしてなかったのね)
いつものごとく、恐らくどこかに置き忘れたか、踏んでしまったに違いない。
近眼の来さんは、かなり度の強いコンタクトを付けている。珍しく視矢くんが来さんの前で私の手を握ったことも、それで頷けた。普段なら見咎めるところでも、来さんは視界がぼやけていただろうから。
最重要警戒箇所とされた漆戸良公園は、森林あり池ありで、自然の中にいる気分が味わえる近場の観光地だ。この季節はあまり人がいないものの、夏場は平日でも休憩中の会社員の姿をよく見かける。
初めて来たという視矢くんに、テニスコート、噴水などを案内しながら、私たちは公園内を一緒に歩いていく。こんな風に出掛けられるのは、仕事であっても嬉しかった。視矢くんも楽しそうに私のガイドに耳を傾けてくれる。
「なんか、デートしてるみてえだな」
「そ、そうだね」
軽い調子で言われ、どきりとする。隣を歩く視矢くんの横顔はまったくいつも通りで、きっと言葉に深い意味はない。意識しているのはこちらだけというのがほんの少し寂しい。
公園内で一番有名な場所は、遊歩道を進んだ先にある湖水、通称『蒼の湖』。陽光を受けてきらきらと蒼く輝く水面は下まで見通せる程澄んでいて、週末ともなれば大勢の人が訪れ、ボートに乗ったり周囲の散策を楽しむ。
私はその湖が視界に入らないうちに、視矢くんの服を引っ張って回れ右をした。
「別の場所、行こう。この先は湖だから」
「いい。近くで見ておかねえと」
引き返そうとするのを遮り、視矢くんは湖の方向へ目をやった。
彼は極度に水を嫌う。家族をクトゥルフに殺されて以来、水そのものを嫌悪している。キッチンやシャワー等の水道水はともかく、雨の日は終始憂鬱そうで、池や湖といった水場は近寄りたがらない。
それでも水の従者にとって、蒼の湖は絶好の住処。公園へ来た目的がデートではなく、警戒区域の下見である以上、避けて通るわけにいかない。
「……大丈夫?」
湖面が見えるところまで近付いた時、そっと声を掛けてみる。大丈夫でないのは明白で、視矢くんの顔色は湖と同じくらいに真っ青だった。私は膝から崩れそうになる彼の体を咄嗟に支えた。
「ちょ……、近ぇって」
「そんな場合じゃないよ!」
一人で立てない視矢くんに肩を貸し、その右腕を担げば、お互いの顔が至近距離に来る。こちらだって心臓が喉から飛び出しそうだけど、本当に恥ずかしがってる場合じゃない。
視矢くんを連れて湖から離れ、急いで遊歩道まで戻る。ベンチに座らせ、傍の自販機で買ったホットココアを、おごり、と言って両手に持たせた。血の気が引いた彼の手は、ひどく冷たい。
「悪ぃ。情けねえとこ見せた」
「いつも、こんな風になるの?」
「まあな……。少し休んでりゃ、治る」
自嘲気味に苦笑し、視矢くんはココアを啜った。家族を奪われた深い心の傷。その時の情景を想像するだけでぞっとし、胸が潰れそうになる。
「サンキュ。残りは、やる」
「え?」
半分程飲んだ缶を掌の上に置かれ、一瞬戸惑った。
「飲んどけ。念の為の保険」
(間接キス、なんだけどな……)
こちらがどきどきしていることも知らず、視矢くんは無頓着に勧めてくる。私は飲み口を見つめ、まだ温かいココアを一口飲んだ。
『保険』の目的は、ちゃんと了解している。彼の血を口にすることで、他の人間もハスターの眷属ビヤーキーを呼べるようになる。とはいえ体質によって効力に差があり、私とはあまり相性がよくないらしい。
元々ビヤは風の邪神ハスターに仕え、今は視矢くんが借り受けている。前に一度その異界の生物に助けられたことはあるけれど、実際姿を目にしたことはない。大きな羽ばたきが聞こえたので、羽根を持つ巨鳥ではないかと思う。




