32. アクア・トラブル
おばけ公園の事件から一ヵ月。私は『司門特殊警備保全請負株式会社』に勤務することになり、忙しくも充実した毎日だった。
邪神に対抗できる力を持たない私は書類整理等の事務仕事が中心で、社長である来さんは、危険が及ばないよういつも配慮してくれている。
『旧支配者』と呼ばれる邪神の存在は、オカルト好きな人々の間で噂される都市伝説だと、この事務所に来て知った。
邪神や従者が実在するなんて、きっとほとんどの人は信じない。一般的な認識では、UFOやUMAと同じ眉唾な話。
この手のミステリーはたいてい世間に隠蔽され、実際にそれらを目撃して初めて、人智を超えた存在に気づく。その結果命を失うか、あるいは記憶を消されるか。私は幸運にも、どちらも免れたけれど。
来さんや視矢くんのように、対邪神の仕事を請け負う代行者は他にもいるらしい。私たちの事務所のスポンサーは、そういった人々を取りまとめる政府関係の機関なのだとか。
スポンサーについて来さんたちが教えてくれたのは、『Task Force against Cthulhu(クトゥルフ対策部隊)』、通称『TFC』という名称だけ。
私からはあえて質問しない。来さんが言うべきでないと判断したのなら、知らない方がいい事だろうから。
「……これで、止まってくれますように」
蛇口のパッキンを取り換えた後、私は祈るように呟いた。
水浸しの床に目を落とせば、自然と溜息がこぼれる。キッチンの水道が溢れ出し、水が止まらなくなるなんて、ついてない。
水道が壊れたおかげで、今日の出社は大遅刻。事務所には連絡を入れたけれど、直らなければ、水が使えないままになってしまう。
修理の際に外の止水栓を閉じていたので、水を出して確認しなければ始まらない。
私はサンダルを引っ掛けるように履いて、アパートの水道メーターの場所へと急いだ。
マンションとは言えない昔ながらの二階建て八世帯のアパートは、共用スペースにメーターが設置されている。そこに、この古びた建物とは不釣り合いな先客がいた。
紫がかったグレーのジャケットに、ドレープTシャツ、ベルトの付いた黒いショートブーツ、ネックレス、極めつけは指無しのレザーグローブという、俗に言うヴィジュアル系の若い男性。
すらりとした体躯と整った顔立ちが、服装と見事に調和している。
けれど何よりも人目を引くのは、彼の白い髪。服装が服装な為、それ程違和感はないものの、肩に少しかかる髪は、メタルのような艶やかさだった。
(こんなところで、何を……)
こそこそと悪事を働くにしては派手すぎる外見だが、アパートの住人でないのは確かで、私は思わず身を固くした。
「さっき、水のトラブルはなかった?」
男性はこちらに気づくと、軽い口調で尋ねてくる。不審者でないとしても、水道修理業者とも思えない。依然警戒しつつ、聞かれたことについては隠さず答えた。
「蛇口から、水が止まらなくなりましたけど」
「ああ。それで、止水栓を閉めていたのか」
彼の言葉からすると、やはり水道を調べていたのだろう。
「パッキンを交換したので、とりあえず水を出してみようと思って」
「原因はそこじゃないが。まあ、直ってはいるはずだ」
「はあ……」
なんだかよく分からない言い方をされ、私は眉を顰める。
ここで何をしていたのか聞いてみようと思い、口を開きかけてはっとした。今はそんな場合ではない。
「じゃ、急いでるので」
当初の目的である止水栓を開くと、男性に挨拶だけして慌てて部屋へ戻る。特に引き止められることも、後を追われることもなかった。
キッチンの蛇口をひねってみれば、水が流れ出す。反対側に回してきちんと止まることを確認し、私はよし、と握り拳を固めた。が、のんびりしていられない。
大急ぎで身支度を整え、事務所へ向かうべく駆け足で玄関を飛び出した時、時刻は既に九時を回っていた。
高級マンション・クラフトの503号室。それが、会社の事務所兼、来さんと視矢くんの自宅でもある。
「新入社員の分際で、遅刻とはいい度胸だ」
「ごめんなさい、先輩」
事務所に駆け込むや、唯一の先輩が戸口で仁王立ちしていた。わざと居丈高に振舞う視矢くんに、私は深々と頭を下げる。遅刻したことについて言い訳の余地はなく、心から猛省した。
「あまり小夜をいじめるな、視矢」
「いじめじゃねえよ。人聞き悪ぃ。だいたい、来は小夜に甘すぎるんだ」
項垂れて畏まっていると、社長自らホットミルクの入ったマグカップを私に手渡してくれた。飲み物を入れるのは普段は私の仕事なので、殊更申し訳なく思う。
「視矢くんの言う通りだよ、来さん。私が悪いんだもの」
今日は午前中に、スポンサーのアポイントが入っていた。よりによってTFCの人が事務所に来る日に、新入社員が大幅に遅刻なんて知れたら、来さんも社長として示しがつかない。
「心配しなくていい。彼はまだ来ていないし。第一、甘いというなら、今月十二回遅刻したもう一人の社員にも罰を与えないと」
そう言って、来さんが『もう一人の社員』を横目で流し見た。すると低く呻いて視矢くんの顔が青ざめる。
ここで寝起きしているのに、視矢くんはなかなか始業時刻に起きてこなかった。ほぼ毎日寝ぼけ眼で昼前に自室から顔を見せるため、結果的に遅刻扱いになる。
もっとも深夜の見回りの仕事が多い以上、朝早い起床が困難なのは当たり前。来さんもそれを承知しているから、無理に叩き起こすことはせず、視矢くんが部屋から出て来るのを待つ。
なんだかんだで、二人はいい相棒同士だ。




