31. ロスト・アンド・ファウンド
九流が幻術の行使を自覚しているのかいないのか、定かではない。所詮は無為な妄想にすぎず、都合のいい偽りだ。だとしても失った家族を虚像の中に見つけたなら、たとえ歪んだ形であろうと、ある意味幸せなのかもしれない。
「母も義父も私を恐れてる。本当に愛してくれたのは、実父だけよ」
名残惜しく手を振り、炎の精を一つ一つ異界へ還していく。望めばいつでも九流は炎の精という『家族』に会える。俺にはない能力が少しばかり羨ましかった。
炎の精がすべて消えたのを見届け、俺は木刀を振って燻った瘴気を吹き飛ばし、結界を解いた。
「大人しく炎の精と遊ぶだけにしときな。でないと、『TFC』が動く」
「ご忠告ありがとう。でも、お約束はしかねるかしら」
ふふ、と口の端を上げた女は、依然クトゥグアの信者だった。炎の精が人間に危害を加える可能性は低く、多分こちらはひとまず九流の監視をお役御免になる。しかしスポンサーが不穏分子と判断すれば、今度はTFCのハンターが来る。
これ以上九流が何を欲しているのか知らないが、この先は事務所の業務管轄外。信者とのいざこざは本来スポンサーが担う。
「ま、ご自由に。俺には関係ねえ」
「あら、私と縁が切れたと思って? あなたの力をそう簡単に諦めるわけにはいかないのだけど」
「勘弁してくれ! んじゃな!」
付き合っていられるかと、さっさと踵を返す。貪欲な魔性の女の手に落ちたらどうなるか、想像するのも恐ろしい。
「高神さん。あの子は、私の “弟” じゃないわ」
不意に俺の背後から、そう声が掛かる。声音は穏やかで、どこか懺悔のようにも聞こえた。
「……知ってる」
短く答えた時、九流が息を飲む気配が伝わった。俺は振り向くことも足を止めることもしなかった。人の世の条理も営みも、すべて踏み外した者が一体何を語れる。
冷たい風の中、上着のポケットの内側にふと温もりを感じ、観月が渡してくれた使い捨てカイロだと思い当たる。ぎゅっとカイロを握れば、冷えた指先にじんわり温かさが広がった。
普段なら綺麗に映える夕焼けの赤も、今日はなんだか禍々しい。
九流の一件は、危惧していた最悪の事態を免れたのだから、良しとすべき。けれど気持ちは晴れず、滅入った気分で事務所への帰途に就く。
沈み込んでいてはロクなことがないという教訓を、俺は身をもって実感することとなった。マンションの部屋の外に立ち、俯き加減でドアに手を掛けた途端、中から出て来た人物と派手な音を立てて正面衝突してしまった。
「ってー!」
「痛っ!」
互いに呻いて、それぞれ顎と額を押さえる。ぶつかった相手が観月と分かり、俺が大丈夫かと聞く前に、来が彼女の腕を取って立ち上がらせた。
「大丈夫か、小夜?」
「……ちょっと待て。お前、来だよな」
「そうだが」
「なんで、観月を下の名前で呼んでんだよ」
玄関先で、俺はそんなどうでもいいことを問いただす。観月はぶつけた頭をさすりながら、きょとんとしていた。
「なぜと言われても。今後は社員になるのだし」
来の方も、食って掛かられた理由が理解できないのだろう。ナイは仕方ないとして、来までも下の名前で彼女を呼び捨てにするようになったのが少々引っ掛かる。
とはいえ、やっかみだということは重々承知しているので、追及はそこで止めた。
「九流はどうした。やったのか」
「やってねえが、解決済み。一応和解ってとこ」
やや厳しい口調で尋ねられ、そういえば連絡をしていなかったと気付く。怠慢だと叱責する来に、悪かった、と俺は素直に詫びた。心配してくれたゆえのお叱りだ。
九流との経緯をかいつまんで話せば、予想外に平和的な決着に来も観月もほっと安堵の表情を浮かべた。
「で、そっちはどっか出掛けるのか?」
「視矢くんを助けに行こうとしてたんだよ!」
「相手が人間の信者なら、お前だけに任せられない」
「そ、そうか……」
畳みかけて訴える二人に、俺は目を逸らして頬を掻いた。暗くなる前に帰るよう観月に事務所の鍵を渡したのに、来が戻るまで待っていたとは。来も来で、俺の援護をすべく、早めに報告を切り上げて事務所へ戻ったらしい。俺に家族はいなくとも、周囲は思いの外温かい。
「送ってく、観月」
照れ臭さと有難さを誤魔化して、ボディガードの顔で手を差し出す。薄暮の空はすぐ夜になる。今日ばかりは来も異論を唱えることなく、彼女を俺に任せてくれた。
事務所のドアが閉まった後、視線を感じて顔を向けると、最上の笑みをたたえた観月が悪戯っぽく首を傾げた。
「視矢くんにも、下の名前で呼んで欲しいな」
「え?」
突然の申し出に、俺は頭の中が真っ白になってしまう。どぎまぎと狼狽えたものの、要するにナイも来も下の名前で呼ぶのに、俺だけ名字呼びはおかしいんじゃないかという話。
来の言う通り、同じ場所で働くならこの機会に呼び方を改めるのもいい。何より彼女からの可愛いお願いを断れるわけがない。
「分かった。これから同僚だな。よろしく、小夜」
「よろしく、先輩」
冬の大気が肌を刺しても、向けられた笑顔で心が満たされる。どれ程生き辛い状況であれ、生きている限り、諦めない限り道は見つかる。
木刀を肩に担いで空を仰ぎ、一番星に目を留めた。暮れ掛けた頭上にヒアデス星団が散らばり瞬く。心の中に巣食っていた、公園を後にした時の憂鬱さは嘘のように消えていた。
―炎編 完―




