28. 夜の迷い子
夜が深まるにつれ、家々の明かりが消えていく。体を動かしている間は気が紛れても、やがてまた原初的な恐怖が忍び寄って来た。
小夜は部屋の電気を点けたまま、普段着でベッドに横になった。枕元のデジタル時計に目をやれば、後数分で真夜中の十二時。普段ならもう就寝時間だが、とても眠るどころではなかった。
従者が現れたとして、きっとアパートの住人は誰一人気付かない。最悪の場合、人知れずこの世から消され、何日か経って彼女が部屋にいないと分かることになる。頼れるのは視矢たち事務所の面々だけだ。
次第に風が出て来て、時折窓がカタカタと音を立てた。そのたびに体を緊張させ、ただの風の音だと分かりほっと息を吐く。それを何度か繰り返しているうちに、突然ぞくり、と肌が泡立った。どこからか腐肉に似たおぞましい匂いが漂ってくる。
(従者……!?)
本能が危険を知らせ、小夜はベッドから飛び起きた。部屋の中におかしな様子はないけれど、何かがいる。皮膚の上を虫が這うような空気の感触に身震いが止まらなくなった。
従者は既に部屋の中にいるのか、あるいはドアの向こうから様子を窺っているのか。いずれにせよまだ姿を見せておらず、逃げる時間はあった。なのに金縛りに遭い、どうしても足が動かせない。
視矢に連絡しようにも声を出すことすら叶わなかった。小夜は纏い付く闇に捕まってしまった。
(ダメだ、逃げられない……)
早くベランダへ出なければと思いながらも、強張った手足は意志に従ってくれない。忌まわしい瘴気が体と心を犯していく。この先自分の身に訪れるだろう惨事を直視するのは耐え難く、唯一動かせる瞼を下ろした。すると、視界を閉ざした彼女の肩に軽く誰かの手が置かれた。
「諦めるなんて、らしくないじゃない」
耳元で子供っぽい口調の聞き慣れた声がして、ぎょっとして目を見開く。いつの間に、どうやって部屋の中へ侵入したのやら、ナイがベッドの側に立っている。
「ナイ! どうして……!?」
「声、出るようになったね」
彼女の金縛りを解いた元邪神は、にこりと笑みを浮かべた。窮屈なワイシャツの首元のボタンを外し、ネクタイを緩めつつ軽口を叩く。
「なんで、かわいいパジャマとか、色っぽいネグリジェじゃないの」
「何言って……っていうか、どこから入ってきたの!」
「愚問でしょ、それ」
部屋の一角を凝視し、ナイが腕を前に突き出した。その掌の先で空気が揺らめき、ヴェールを剥ぐように空間が歪んだ。一層強烈な異臭が鼻を突き、ブヨブヨした黒い塊が床からうぞうぞと盛り上がってくる異様な光景に、再び小夜の足元から恐怖がせり上がる。
「小夜、ベランダに行って」
ナイは小夜を背後に庇い、従者と対峙した。
「ナイは……?」
「後から行くよ」
不敵に笑う彼に、怯む様子は微塵もない。小夜はベッドの下に用意していた靴を持って、ベランダへ走り出た。震える手で窓を開ければ、初冬の冷やかな外気が淀んだ空気を払う。後ろを振り返る彼女を、ナイが早く、と急かした。
ビヤの名前を呼んで、三秒間目をつぶる――視矢から言われた指示を反芻し、小夜は瞳を閉じた。
「……来て、ビヤ!」
1、2、と数え、3を言う前に、頭上で巨鳥の羽ばたきの音が聞こえた。
一瞬にしてその姿がなくなり、開け放った窓から室内に風が吹き込む。彼女が無事逃げられたことを確認して、ナイは従者に向き直った。
「ちょっと聞いておきたかったんだ。キミと九流弥生のこと」
ナイが距離を詰めると、従者は瘴気を放ち威嚇した。問い掛けに反応し、従者の体全体に生じた幾つもの小さな腫瘤がパンと弾ける。
「しゃべらなくていいよ。考えるだけでボクには分かる」
元邪神の瞳に哀れみはなく、酷く冷たい眼差しでかつて人だったものを見据えていた。
俺はじりじりした気持ちでビヤを待った。観月のアパートに従者が現れると同時に、ナイが彼女の元へ飛んだ。まだ五分と経っていないのに、何倍もの時間が過ぎた感じがする。
程なく打合せ通り、従者の古巣だったおばけ公園へビヤが観月を運んで来た。急に地に放されて崩れ落ちそうな彼女の体を支え、俺は安堵の息を吐く。
「よかった。平気か、観月?」
「……え? 私、どうして……」
観月は可哀相なぐらい狼狽えていたが、俺の声に幾らか安心したらしい。アパートから児童公園へ移動したのは文字通り瞬きする間の出来事で、ビヤの姿を目に映す時間はなかったろう。
少し遅れて大気が歪み、虚空からナイと従者が同時に現れた。瞬間移動を目の当たりにした観月は、驚きで声も出せない。
「お待たせ。ボクがいない間、小夜にヘンなことしてないよね」
「んな暇ねえ。で、お前がやってくれんのか、ナイ」
「ちゃんと、シヤに花持たせてあげるよ」
最後まで協力してくれるのかと思いきや、ナイの答えはノーだ。決して『花』などではないものの、そもそもが自分の仕事なので文句は付けられない。俺はナイに観月を任せ、木刀を従者に向けた。
「小夜はこっち。公園の入口で見張りね」
「待って、ナイ! 視矢くん一人に押し付けるなんて……」
ナイに腕を引かれながらも、彼女は立ち止まって逃げるのを拒む。こちらの身を案じてくれるのは嬉しいけれど、頼りなく思われているのは少々心外。いいから行けと、苦笑して片手を振って見せた。
観月が離れたのを見届けて、周囲に結界を張る。児童公園の敷地そのものは狭く、奥の方にある砂場も距離としては入り口からさほど遠くない。しかし滑り台やジャングルジムなどの遊具と休憩所の配置、さらにやたらと多い樹木のおかげで外からの見通しが悪かった。
負の気が溜まりやすいこの場所は、従者以外に良くないものたちの温床になっている。
(すまねえな)
謝罪を心の中だけに留め、俺は木刀を振り下ろした。手始めの一撃を従者は地面に潜ってかわすと、空中に炎の小弾を作り出す。噎せ返る熱気に喉が焼かれ、爛れた空気が炎となって矢継ぎ早に降り注ぐ。俺は炎を木刀で薙ぎ払い、動きを止めるべく距離を詰めて突きを入れた。
悲鳴の代わりに、腐肉に生じた腫瘤が音を立てて弾けた。もはや従者に人だった頃の心はなく、言葉も理解していない。それは六歳の少年ではなく、魔に堕ちた異形。助けてやりたくとも、俺の力ではどうにもならない。
「イア、イア、ハスター」
木刀を正眼に構え低い声で詠唱する。主人の呼び出しに応じ、異界の巨鳥が大きな羽音を響かせ背後に舞い降りた。
「三秒、時間をやる」
従者に向けた木刀の先に、暗く冷たい靄が集まり出す。靄は異空間へ続く『扉』。扉が完全に開かれれば、否応なくあちら側へ引き込まれる。徐々に広がる靄が深淵への道を作っていった。
今までの熱気は消え失せ、外気温が急激に下がり、俺の心も凍り付く。
「消滅か深淵か。どちらがいい」
すべての感情を捨て去って、黒い異形に告げた。靄越しに見える従者は、既に異界から伸びる手に拘束され微動だにしない。
邪神と契約した人間の魂は、輪廻転生の輪から外れる。生まれ変わることはできず、魂が消えてなくなるか、這い上がれない深淵に落ちるかの二択。同程度に救いがない以上、消滅させる方が慈悲だと来なら言う。
俺としては、問いの答えを待つつもりはなかった。三秒ルールは、己の迷いを断ち切るための自己暗示にすぎない。
「……ビヤ。この子を深淵へ送れ」
宙に大きく円を描くように木刀を回すと、暗黒の穴が口を大きく開いて深淵へ誘う。冷たく凍てついた空間の向こう、救われない魂の行き着く先がどんな場所なのか、知る術はない。ビヤが水先案内を務め、従者を深淵へ誘導する。
いつか、俺自身その時を迎える。もっとも復讐を果たしたその後であれば、構いはしない。
消滅か深淵か、最期の三秒間で、俺はどちらを選択するのだろう。




