26. 熱情乱舞
俺を押し返そうと動く観月の手は、火傷をした左手はもとより、右手にもたいして力は込められていなかった。武道家の彼女が本気で拒んだなら、確実に俺は床に昏倒している。
無論、口付けが初めてなわけじゃない。なのにまるで初心な中学生みたいに体中が熱を上げ、激しく乱打する心臓の音がうるさく耳に響く。
触れた部分から徐々に痛みや辛さが和らぎ、すべての苦痛から開放される感覚。口付けだけでこんなにも幸せな気持ちになれるとのだと、初めて知った。
柔らかな感触に理性が焼き切れそうになる。情けないことに、歯止めをかけたのは、自制心ではなく、忌まわしい俺の血。鎌首をもたげたどす黒い血がざわりと逆流し、観月を拒んだ。正確に言えば、俺の内なる魔が彼女の破魔の力を恐れた。
本来の目的を思い出し、俺は自分の唇を歯で傷つけてから、今度は角度を変え深く口付けた。唾液と共に血を送り込み、錆びた鉄の味を共有する。
「……んっ」
鼻に掛かった観月の甘い声が脳を痺れさせた。これ以上溺れてしまってはまずい。なんとかブレーキを掛け、名残惜しく体を離して手の甲で唇を拭った。血が付いた手を目にすれば、急速に頭が冷えてくる。
「え、と。まずは、その……、ごめん!」
ボディブローが飛んでくる前に、俺は両手を合わせ頭を下げた。観月は上気し呆然とした面持ちでこちらを見つめている。そんな視線を受け止められなくて、俺の方が下を向いてしまう。
「どうして……?」
怒りというより戸惑った様子で、観月が疑問を投げ掛けた。彼女の「どうして」は、キスしたことに対してか、それとも謝ったことに対してなのか。
ボディブローが来ない理由を俺も問いたかったが、聞いたが最後、きっともう後戻りできなくなる。
「……俺の血を飲んでもらった。今夜、従者が来る」
事務的な口調を意識し声を低めて告げると、観月の表情が一気に強張った。それ以外の邪な衝動に突き動かされたと自分では承知しているものの、当然言えはしない。
十中八九アパートに張った結界は既に穴が空いている。今の状態は、表面上綻びを隠して取り繕っているだけ。正確にその箇所を特定できなくとも、不自然さを感じるのは結界が完璧でない証拠だ。
「俺の血を飲めば、ビヤを呼べる。従者の気配を感じたら、すぐにビヤの名を呼べ」
「……ビヤって?」
「俺のしもべ」
突拍子もない話に観月は目を白黒させている。これまで俺自身と邪神の関りについては極力触れないようにしてきた。俺が風の邪神ハスターと契約した事、ハスターの眷属ビヤーキーを使役できる事、すべてが彼女にとって驚愕に違いない。
結界が無事なら、話すつもりはなかった。けれど今は一つでも多く、観月の安全を確保する手段が欲しい。
ビヤは邪神に襲われた人間を逃がすための最終手段。本来ビヤを召喚するには黄金の蜂蜜酒と秘薬を飲み、石笛を吹いて、ハスターを称える呪文を唱える。今は俺がビヤを借り受けているので、しちめんどくさい手続きはなく、俺の血を飲むだけでイケる。
その簡易さに付け込まれ、九流に力を与えてしまったのだが。
観月にとって、ビヤは得体の知れない存在で、ますます不安にさせてしまったかもしれない。俯きがちに包帯の巻かれた左手をさする彼女に、何を言えばいいか分からなかった。謝罪も言い訳も意味がない。
部屋の空気に肌寒さが感じられ、俺は床に置いていた木刀を手に取った。
「あと少しの辛抱だ。今夜でカタを付ける」
「また明日も、会えるよね……?」
服の上からペンダントのタリスマンを握り締め、観月が小さく尋ねた。
窓から冷たい風が吹き込み、薄いピンク色のカーテンが揺れる。見ると、ベランダに出られる大きな窓がわずかに開いていた。
「寒ぃ。閉めていいか」
観月も問いには答えを返さず、立ち上がって窓辺に寄る。ベランダの向こうは駐車場になっていて、車は一台しか停まっていない。建物との間にフェンスがあるとはいえ、乗り越えられない高さではなく、アパートの防犯がしっかりしているとは言い難い。
もっとも従者に物理的な障害はないため、高セキュリィティのタワマンだろうと同じこと。
窓のサッシに掌をかざしたところ、違和感はなかった。ベランダ側が問題ないとなれば、やはり結界が破られたのは玄関側か。
窓を閉め流れ込む外気を遮断した時、上着のポケットから着信音がした。
こんな場合に掛けてくるのは、来しかいない。スマホを手に取り、予想を違わない相手に短く相槌を打って通話を終える。
仕方なく玄関の方へ足を向けた俺を、観月が慌てて引き止めた。
「待って。温かい飲み物入れるよ?」
「いや、もう戻らねえと。社長様がお呼び」
スマホを示し、肩を竦めて見せる。彼女を家に一人残すのは心苦しいし、ずっと傍に付いていてやりたい。しかし従者をおびき出すためには俺が傍にいるわけにはいかず、来はそういった事情を考慮した上で事務所に戻れと言っている。
「怖いのか?」
「うん、怖いよ……」
我ながら馬鹿げた質問をしてしまった。従者が来ると告げられて、怯えるのは当たり前。
「心配すんな。必ず守ってやっから。ナイも手貸してくれるしさ」
「ありがとう……。視矢くんも気を付けて」
観月は聞き分けよく頷いた。本心は怖くて仕方ないだろうに、泣き喚いて取り乱さないのも、こちらを気遣うのも彼女らしい。
木刀を持ち直し、子供をあやすように観月の頭を撫でてやる。昔々、こうしてよく妹の頭を撫でてやった。現在の俺は、何もできないまま大切なものを根こそぎ奪われたあの頃とは違う。
俺は後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、努めて明るい顔で彼女に手を振り、夜の闇に走り出た。




