23. ロスト・イン・ア・メイズ
バイトが終わると、外に視矢ではなく来が待っている。そのことは、もう慣れた。
小夜が驚いたのは、公園の従者が再び動き出したという知らせだった。
「このままでいれば、危険が伴うのは事実だ。どうする、観月?」
前回の時とは従者の状況が違う事を伝え、来は小夜の意向を尋ねた。彼女自身が記憶消去を望むなら、ナイも了承せざるを得まい。
戸惑いつつ、小夜は首を横に振る。安全な日常を取り戻す代償として、事務所の二人との大切な思い出を失うのはどうしても嫌だった。
「記憶は消さないで」
「……分かった。あなたの判断に任せる」
来も特に無理強いはしなかった。ナイの力があれば、小夜を守るに足ると確信している。
「私にも何かできないかな。これでも、昔から霊感強いんだよ」
「危ない事は避けて欲しい。それが一番有難い」
小夜の訴えを来はやんわり退けた。本人が知らないだけで、彼女自身破魔の力を無意識に使っている。もっともそんなことを伝えようものなら、小夜をもっと深く関わらせてしまう。
「視矢くんは、公園に行ってるんでしょ? 結局私、迷惑かけちゃってる」
「観月、それは……」
違う、と訂正する前に、来の足が止まった。
表通りに立ち並ぶ高級ブティックの一つから、妖しい気を放つ若い女が出て来るのが見えた。実際に面識はなくとも、リストに上がったその女の顔は来の頭に入っている。
「別の道を行こう、観月」
「え?」
来に背を押され、歩道をUターンしかけたところ、女の方が二人に気付いた。
「こんにちは、観月さん。あら、今日は高神さんは?」
コツコツとハイヒールの音を響かせ、九流弥生がにこやかに話しかけてくる。親しげに呼び掛けられては、会釈を返さないわけにいかなかった。
「こんにちは。え、と……、高神さんは別のお仕事があって。最近は、社長さんに護衛してもらってるんです」
弥生の口から視矢の名前が出るたび、胸が締め付けられる。戸惑いを隠して、笑顔で返す小夜を弥生は楽し気に見つめた。
「こちらが、社長さん? お若い方なんですね」
「若くはない」
小夜を庇うように立つ来に、弥生は挑発するような視線を向けた。事務所の実情を知っているに違いない邪神の信者でありながら、空とぼけた素振りがあまりに白々しい。淑やかな態度の内に秘めた炎の気も嫌悪感を募らせた。
小夜がいる前で余計な話はできないため、来はただ眉を顰めて信者の女を睨む。
日頃から愛想がないとはいえ、女性に対して露骨に敵意を表す来の態度が小夜には意外に思われた。今の来は以前オーガストでナイが見せたのと同種の威圧感を放っている。
一方弥生は気分を害した様子もなく、ちょうど良かった、と両手を打ち鳴らした。
「高神さんに『いつものホテルで待っている』と、社長さんから伝えてもらえません?」
「そういう話は、直接本人にしてくれないか」
「彼の電話、なかなかつながらなくて。焦らすつもりかしら」
スマートフォンを手にして、悩まし気に吐息を漏らす。意味ありげな弥生の言動に、小夜はたまらず目を伏せた。
「あなたは、あまり調子に乗らない方がいい」
「何の事でしょう?」
来が鋭い声で制しても、令嬢の仮面をかぶった女は素知らぬ顔で一向に動じない。
弥生が欲するのは、視矢本人ではなく視矢の力。それゆえに破魔の力を持つ小夜が傍にいると、信者にとって都合が悪い。来としては、弥生が視矢を狙うこと自体は別に構わないが、小夜を傷付けられることが不快だった。
「ちゃんと、高神さんに伝えてくださいね」
念を押すように言い置いて、弥生は道路脇で待つ黒塗りの車に乗り込んだ。
車はすぐに視界から消え、一方的に押し付けられた伝言に来は迷惑そうに顔をしかめる。小夜を気遣いながらスマホを取り出すと同時に、計ったようなタイミングで着信音が鳴り響いた。
「視矢からだ」
発信者を確認し、通話ボタンを押す。一言二言相槌を打つだけの短い言葉では、横にいる小夜に話の内容は分からなかった。けれど彼の眉間に寄った皺で、好ましくない事態になったのだと窺える。
「……何があったの?」
「公園の結界が破られた。従者は逃亡中」
通話を終えた来は、道沿いで素早くタクシーを呼び止めて小夜を後部座席に押し込んだ。今日はアパートから出ないよう彼女に忠告し、運転手に行先を伝える。
「大丈夫だ。家にいれば問題ない」
アパートはとりわけ強固な結界で守られている。安心させようとする言葉に小夜は気丈に頷き、車内から手を振った。彼女を乗せて遠ざかるタクシーを来は見えなくなるまでずっと目で追っていた。
「くそっ!」
俺は唇を噛み締め、地面を拳で叩いた。結界が持たないのは承知の上。仕留めるつもりで挑んだのに、児童公園の従者は気配を完全に消していた。
瘴気もなく、もしや従者が再び人間の心を取り戻したのでは、と油断した。そんな策にまんまと引っ掛かった馬鹿に付ける薬はない。結果公園の外へ逃げられてしまい、従者の居場所を完全に見失った。
観月を送っているであろう来に直ちに連絡を入れると、電話越しに静かな口調で、そうか、と返された。傍に観月がいるせいか、語気は控えめではあったけれど相当怒っている。
『とにかく、お前はそのいつものホテルとやらへ行け』
「“いつもの” じゃねえ!」
来は俺に九流の指示に従えと言う。明るいうちは襲って来ないし、アパートから出ない限り観月は安全だ。
『いつもの』ではないホテルは、以前軟禁の憂き目にあった例の場所だろう。二度と足を運びたくないものの、従者が魔性に逆戻りした裏には九流の、というより炎の精の力が働いている。
動きたがらない己の足を叱咤し、俺はホテルへ向かった。ところが、待っていると伝言して呼び出しておきながら、当の女の姿はラウンジになかった。
小一時間程待ち、その間に九流のスマホに連絡してみるも応答はなし。もっとも先程何回か鳴った電話を無視していた身としては、文句は言えない。
念の為フロントで確認したところ、九流の予約は入っていなかった。初めからすっぽすつもりだったのか知らないが、ともかくこれ以上待っても時間が無駄になる。
諦めてホテルを出た俺は、夕焼けに赤く染まった空を仰ぎ見た。
あの女が急な用事のせいで来られなかった、とは考えにくい。騙した理由が嫌がらせ以外にあるとしたら。
(俺を、足止めしようとした?)
嫌な予感にぞくりと身体が震えた。結界を破り外へ逃げた従者と九流が接触する可能性に、その時ようやく思い至る。昼間は従者は動かない。結界内にいれば、従者は中に入って来られない。だが、人間である信者には無効だ。
来に任せてあるので、観月のことは心配要らないはず。それでも無事を確認するまで落ち着かず、俺は観月のアパートへと急いだ。




