19. 戸惑いの途中で
定時でバイトを終えた小夜は、帰り支度をしながら溜息を吐いた。
今日からは、事務所の都合によりボディガードが来に変更になる。ここのところ従者に動きはなく、もう迎えはいらないのでは、という彼女の提案は、視矢にも来にも即座に却下された。
小夜としては、正直なところ来に護衛を頼むのは申し訳ないと思う半面、少しほっとした部分もある。何となく今は視矢と顔を合わせるのが辛かった。
ホテルでの弥生との一件は誤解だと視矢は言う。たとえそうであっても、弥生が彼にアプローチを掛けているのは誰の目にも明らかだ。
(なんで、こんなにモヤモヤするんだろう)
自分が何にこだわっているのか彼女自身にも分からなかった。毎日バイト先に迎えに来てくれるのはあくまでも仕事の一環で、従者を警戒してのこと。彼らのプライベートに干渉する権利などあろうはずがない。
(元気出せ、私)
落ち込みそうになる気持ちを小夜は頭を振って切り替えた。暗い表情をしていては、きっと来が気を遣ってしまう。
建物の外で待つ彼に、お待たせ、と笑顔を作る。ところが近付いて行き、反射的に一歩後ずさった。赤味が差した男の瞳は、来とは違う鋭い光を放っている。一見して、人格が来ではないと知れた。
「小夜、コイワズライみたいな顔してる。……ね、甘いもの食べに行こうよ。気分転換にさ」
「ち、ちょっと、ナイ!」
どうしてナイが出ているのか尋ねる暇もなく、有無を言わせず元邪神は彼女の手を引っ張っていく。人通りの多い街中で、すれ違う女性たちにたびたび目を留められても、本人はまったく意に介さない。
仕方なく付いて行くと、馴染みのある小道に入り、やがてカフェ・オーガストの立て看板が目に入った。
「ここのフルーツパフェ、美味しいんだ」
依然手を握ったまま、ナイは窓際の空席を指差す。この間視矢と一緒に新作マンゴーを食べに来た時、ナイもこの店の常連だと視矢が話していた。はしゃいだ様子を見るに、相当お気に入りなのだろう。
「分かったから、手、離して」
「逃げない?」
「逃げないよ。大丈夫」
子供に接するように優しく答えれば、ナイは安心したように小夜の向かいの椅子に座った。
若い女性客の多い店内では、街中以上に好奇と羨望の視線が突き刺さる。
「すまない、観月。ナイが勝手なことをして」
抑揚のない口調は、人格が来に変わったしるし。わがままなナイの行動を来が諫めることはしばしばある。けれど二人の力差は歴然で、元邪神が本気で来を封じる気なら身体を完全に乗っ取るのは容易い。万が一ナイが暴走した場合、誰にも制御できない現状だった。
「来さんこそ、忙しいのに」
「私のことはいい」
メニューを小夜に手渡し、来は柔らかく笑みを浮かべる。以前の感情のない顔付きと比べて、格段に表情が豊かになった。
「このお店、ナイは好きみたいだね。ここで視矢くんと初めて会ったんでしょ」
「視矢から聞いたのか」
「うん。この前一緒に来た時に」
(あの時もこのテーブルだったな……)
ふと胸に寂しさが広がり、視線を落とす。そんな彼女の心を察して、来が冷静に告げた。
「視矢は監視対象として九流弥生に付いている。スポンサーからの依頼で」
「お仕事なのは分かってる。でも信者ってそんなに危ないの?」
「九流は特別だ」
理不尽にスポンサーから命じられた仕事とはいえ、事務所側には守秘義務がある。小夜が沈んでいる原因は弥生の件だと見当が付いても、事実を伝えるわけにはいかなかった。別の話題にすり替えるぐらいの機転が利けばよかったが、来にはハードルが高かった。
結局それ以上は何も言えず、気まずい沈黙が支配する。
会話もなくぼんやりと外を眺める二人が恋人同士ではないと、雰囲気から感じ取ったのだろう。隣のテーブルの三人組の若い女性が小夜たちを見ながらひそひそ話をしたと思うと、立ち上がり声を掛けて来た。
「こんにちは。お時間あったら、あたしたちとご一緒しませんか? 今日私たちの大学で、学祭やってるんです」
可愛らしく小首を傾げ、一人が『学園祭』と文字が躍るチラシを来に差し出した。他の二人も上目遣いで両手を合わせて頼み込む。
客引きにかこつけた体のいい逆ナンだと悟り、小夜は苦笑を漏らした。彼女たちは自分の魅力を異性に最大限にアピールする方法を心得ている。自分と同じ年頃なのに、物怖じしない大胆さが少しばかり羨ましい。
それでも大学祭自体に興味を惹かれ、来の方に目を向ける。彼の瞳が赤味を帯びているのにぎくりとし、止めようと身を乗り出した時には既に遅かった。
「キミたち発情中? だったら、ボクじゃなく他の男にしてよ」
「なっ、何を……!」
失礼極まりない暴言に、女子大生たちは怒りと羞恥で顔を真っ赤にさせた。しかし怒りはすぐに恐怖に変わった。元邪神の冷酷な声と表情が、一瞬で彼女たちを凍り付かせる。
ナイの不機嫌な気がびりびりと空気を震わせた。小夜でさえ息を詰めた程の威圧感に、免疫のない若い女性たちはすっかり怯えてしまっている。
「ゴタゴタしてるときに、鬱陶しいったらさ。放っといてくれない?」
ナイが片手で払う仕草をすると、彼女たちはヒッとくぐもった叫びを上げ、慌てて会計を済ませ店を出て行った。走り去る後姿を見送りつつ、小夜は同情の思いで肩を落とす。
「騒がせて、申し訳ない」
再び周囲が静かになった頃、穏やかな声が降って来た。今日は来と元邪神が頻繁に入れ替わる。
「女性の扱いはナイの方が上手いので、いつも任せることにしている」
「そうなんだ……」
脅しを掛けたことについて、来は特に異存はないらしい。確かに、ナイの方が世慣れている。
乱暴なあしらい方だとは思うものの、あれこれ言葉を並べて断るより一番確実で簡単に諦めさせる手段なのかもしれない。
店員が運んできたフルーツパフェを何事もなかったかのように口にする端正な顔立ちの男が、この瞬間はどちらの人格なのか、もはや小夜には判断が付かなかった。




