13. 逃げゆく思い
「ボクをご指名?」
「セレナの話を詳しく聞きたいの。お願い」
熱心に頼み込む小夜に、ナイはふうん、と気のない返事をして、テーブルの上のオレンジの瓶をじっと見つめる。そして中身がマーマレードだと認識するや、すぐさま自らの手にあるサンドイッチにパンが隠れるまで塗りたくった。
「え……それ、卵サンドだよ!?」
「だって、甘い方がいいもん」
小夜が慌てて忠告しても気にせず、満足げに甘い卵サンドを口に運ぶ。
マーマレードは得意料理の一つで、普段から時間がある時は手作りしている。先日ナイが言っていた『オレンジを甘く煮詰めた物』の話を思い出し、ちょうど良いオレンジがあったのでお礼代わりに作って持って来た。
「これ、昔食べたのと同じ味だ」
「ほんと? よかった」
上機嫌で頬張る様子に小夜も顔を綻ばせる。味覚に根本的な問題がありそうとはいえ、喜んで食べてくれたなら作り手としては嬉しい。
甘すぎるサンドイッチを堪能しつつ、ナイは小夜の求めに応じて太古の恋人たちの話を事細かく語って聞かせた。シモンとセレナは幼馴染として育ち、二人は子供の頃から優れた神力を持っていたという。シモンは甘党だったらしく、その好みをナイが受け継いでいる。
驚いたことに、人一人分の人生を元邪神は残さず記憶していた。言葉の端々から、二人の恋人たちがいかに互いを想い合っていたか窺い知れる。しかしそれゆえに、転生後の結末が小夜は腑に落ちなかった。
「どうして、来さんはセレナのこと忘れちゃったのかな。大切な恋人だったのに」
「恋人だからでしょ。自分の大切な人を、自分が殺したんだよ。覚えていたい?」
重過ぎる理由をナイはさらりと告げる。
「ライが覚えていなくても、ボクが覚えてる。それでいいんじゃない」
「……ナイだけが思い出を持ってるんだね」
哀れみにも似た気持ちが小夜の胸に込み上げてきた。それがセレナに対してなのか、ナイに対してなのかは分からない。
太古の巫女が生まれ変わるまで気の遠くなる程長い時間が過ぎ、小夜にとって彼女は見ず知らずの女性でしかない。記憶が残れば、心の負担も増える。新しい人生を送るために過去世は引き継がれないのが自然の摂理だ。
来の方には記憶がなく、ある意味すべての業をナイが背負ったと言える。セレナの命を奪ったのはナイアーラトテップという邪神であり、現世の来やナイとは別の存在。前世の罪の意識を抱え続けるのはなかなかに苦痛だろう。
「……じゃあ、視矢くんがセレナのことを知ってるのって」
小夜は考え込むように視線を落とす。ここまで話を聞いても、最大の疑問は晴れなかった。
ナイの前世の思い出の中に視矢は登場しない。なのに小夜と初めて出会った時、彼女の顔を見て動転していた。視矢がセレナの容姿を知っているのはどうしてなのか。
「小夜はシヤに興味があるんだ?」
「え!? そ、そんなじゃないよ!」
「顔赤いけど」
焦って否定する彼女を眺め、ナイは眉を寄せた。声に出さなくても、小夜が思っていることは元邪神の頭に否応なく流れ込んでくる。
「シヤが知ってるのは、もちろん本物のセレナじゃないよ」
最後のサンドイッチを口に放り込み、仕方なさそうに告げる。
大きめの瓶に詰めてきたマーマレードは既に空になっていた。サンドイッチのパンとマーマレードの比率を考えると、圧倒的にマーマレードの消費量が多い。一人で平らげてしまうとは、甘党も度を越している。
「ボクはどんな姿にもなれる。こんな風に」
ナイは小夜の顔の前に掌をかざし、一瞬視界を遮った。手を下ろした時には、そこにいる人物は来でもナイでもなかった。
変化した姿を小夜は呆気に取られた面持ちで凝視する。目がおかしくなったのでないなら、瞳に映るのは紛れもなく彼女自身。鏡を見ているような錯覚に陥るが、身に着けている服は男物のワイシャツとネクタイのままなので、とてつもなく奇妙な光景に感じられた。
「『ナイアーラトテップは千の異なる顕現を持ち、様々な化身を取る』。ライにはできない芸当だよ」
驚きのあまり固まる小夜に、ナイは悪戯っぽく笑う。
「これはこれで、そそられるかも。『カレシャツ』だっけ?」
一体どこで覚えたのやら、大きなワイシャツにすっぽり隠れてしまった腕を可愛らしく振って見せた。
「分かった! 分かったから、元に戻って」
だぶだぶの服でポーズを決める己の姿が恥ずかしすぎて、小夜は顔から火を吹きそうだった。正確にはセレナを模しているのだとしても、小夜の姿でもあることに変わりない。
「二度と私の姿にならないで。じゃないと、絶交だからね!」
「何、それ。ヒドイ」
絶交宣言に慌てたナイは、瞬き一つする間に自然に男性の容貌に変化する。まるでCGのモーフィングを見ているようだった。
「いつもはこんな事しないよ。さんざんシヤに言われたし」
ナイにしてみれば、特別に力を披露したのに怒られるのは理不尽な気がして、ややふくれ面で抗議する。小夜の方は目を見開いて必死に頭の中を整理していた。
とりあえず判明したのは、視矢が知るのはセレナ本人ではなく、セレナの容姿を取ったナイだということ。その点は納得できたものの、まだどこか引っ掛かりがある。
「……なんで視矢くんはセレナの姿を嫌がるの?」
「昔のマヌケさが恥ずかしいんでしょ。今も十分マヌケなのにさ」
小夜の反応を窺いながら、元邪神はさも面白そうに肩を竦めた。
「シヤはボクの正体を知らずに熱上げてたんだ」
「それって……」
「付き合ってたわけじゃないから。向こうの一方的な片想い」
告げられた言葉の意味は即座には理解できなかった。可笑しいわけでも腹立たしいわけでもない。しばらくの間、小夜はただ呆然とマーマレードの空瓶を眺めるしかできなかった。




