12. ラン・スルー
マンションのドアを後ろ手に閉め、そのままドアに寄りかかって深い溜息を吐く。疲労感を顔に張り付けた俺を見ても、来はこれといって態度を変えない。
「おかえり。何かあったのか」
「……『信者リスト』を調べてくれ。名前は、九流弥生」
髪をくしゃりと掻き上げて、それだけ告げた。来は尋ね返すこともなく、パソコンを立ち上げると眼鏡を掛けてキーボードを叩く。どうやら、またコンタクトをなくしたようだ。
政府の一機関である俺たちのスポンサーは、邪神の信者となった人間のリストを管理しており、そのデータは事務所でも閲覧が許可されている。
程なく目的の情報を探し当てた来は、俺にもパソコンの画面が見えるように体をずらした。
「九流弥生の名はないが、九流忠明という人物は見つかった。弥生の父親だ。十二年前妻と離婚、三年前に他界している」
「弥生については?」
「一般人であれば、リストには上がらない」
「今日現在、一般人じゃねえよ」
新参の信者の場合、情報が更新されるまで十日程度タイムラグがある。九流弥生が信者になったのは、男たちに襲われていたあの夜より後。信者になって日が浅いため、残念ながら個人データはまだリストに反映されていなかった。
亡くなった当時の写真を見るに、九流忠明は四十代後半の優男だ。炎の邪神クトゥグアの信者としてリストにあり、整った顔立ちはやはり娘と面影が重なる。夫婦の離婚は忠明が邪神信仰に傾いたことが原因で、娘の弥生は母方に引き取られたらしい。
親が信者だと、大抵子供は物心つかないうちから信仰を植え付けられる。九流の家では父が早くに家族と別れたおかげで、妻と娘は邪神との関わりを免れた。ゆえに離婚後の家族の経歴は記載がなく、分かるのは弥生という名前と現在二十三歳だという程度。
「父親の影響にしたって、なんで今になって……」
「迫られでもしたのか、九流弥生に」
「は?」
画面を覗き込んで考えていると、不意に来が口を開いた。見事に言い当てられ、俺は間抜けな声が出てしまう。
「……ど、どうして」
「移り香」
淡々とした口調で上着を指差され、服を嗅いでみれば、確かに甘い香りがする。観月は香水を付けていないので、つまりその香は別の女から移されたという結論になる。
来としては、それが観月でない限り、どうでもよい事なのだろう。
「信者の女にだけはよく目をつけられるな、お前は」
「“だけ” は余計だ」
悲しいかな、反論しようにも長年一緒にいる同居人の指摘は正しい。信者の女が俺に寄ってくるのは、好意ではなく力を手に入れたいがためだ。
「お前の体質は毒にも薬にもなる。自重するのが最善だろう」
「承知してるよ」
女は己の肉体を武器に取り入ろうとする。来に言われるまでもなく、誘惑に負けたらどうなるか、これまでの経験で身に染みて分かっていた。今後は児童公園の従者に加えて、九流の動きも警戒しなければならない。
「従者の方は、今夜は無理……」
ソファに倒れ込むように横になった俺は、たちどころに強い眠気に襲われる。
自室に戻ることもできず、そのまま寝入ってしまった体の上にパサリと毛布が掛けられたのを、意識の隅で感じた。
嘘をついた時は、心苦しい。その相手が自分のことを心配してくれているなら尚の事。
この前行き違ってしまったのは故意ではなかったが、今回はバイトが休みのため迎えに来なくていいと小夜は視矢に嘘を伝えた。
(ごめん、視矢くん)
マンション・クラフトのエントランスに入り、心の中で詫びる。
本当は休みではなく早朝のシフトに変更になり、午前中でバイトを終えていた。視矢には知らせないで欲しいとあらかじめ頼んでおいたので、今の時間事務所には来だけがいる。
「いらっしゃい」
ドアを開けた来は、にこやかとはいかないまでも、初めて会った頃より表情が柔らかい。小夜は手にした紙袋を握り締め、こんにちは、と挨拶する。視矢に内緒でやって来た理由を問わずにいてくれたことが有難かった。
「来さん。今日は眼鏡?」
「コンタクトを踏んでしまった」
若き社長はそう言って、指で眼鏡を押し上げる。邪神の化身といえど、人間の体で一日パソコンに向かっているせいか視力は相当悪い。
「マーマレード作ってきたの。あとサンドイッチ」
紙袋を広げ、小夜はランチボックスと鮮やかなオレンジが詰まったガラス瓶を取り出した。来はグラスを二つ持ってきてテーブルの上に置く。客人にペットボトルをそのまま出すのはよくないと前回で学習している。
ちょうど昼時になるので、昼食を一緒に食べようと提案したのは小夜だった。ずっと頭の中で燻っている疑問を来に聞くために一人で訪問した。
視矢とセレナは一体どんな関係だったのか――視矢に直接尋ねても、はぐらかすばかりで教えてくれない。本人のいないところで聞くのは気が引けるけれど、セレナが前世というなら彼女自身にも関係のある話だ。
「来さん……、セレナのこと、教えて欲しいの」
姿勢を正した小夜は、膝の上でぎゅっと拳を握る。
「あいにく私は当時の記憶がない。ナイでよければ、変わろう」
珍しく前置きしたのは、入れ替わりを見るのに慣れていない彼女への配慮だろう。小夜が頷くと、彼の体の主導権は別の人格へ譲り渡された。
「久しぶり、小夜」
若干赤みを帯びた、来より鋭い視線が小夜に向けられる。ナイはセレナを手にかけた、かつての邪神。しかし前世の記憶がない小夜にはナイに対する恐怖や嫌悪の感情はなかった。
「久しぶりね、ナイ」
親しい友人と挨拶を交わすように、小夜は元邪神に笑い掛けた。




