お誘い
(久しぶりにダトニオ爺さんの所に行ってみるか)
あの日、勘を頼りに通った道を再び歩く。
この辺の廊下には俺ただ一人だけしかいないくらい静寂で、ダトニオ爺さんの存在が忘れられている気がした。
部屋の前に立ったけれど中からは物音一つしない。
「爺さん…?入るな」
中に入っても相変わらず静かなまま。部屋を間違えたかと思ったけど、水槽と魚……ダトニオがいたので間違いなさそうだ。
「おーい。じーさん、じーさんっ!!」
『んぉ…アズールか?!よく来てくれたの』
ぼーっとしていたみたいだったけど大丈夫なのか?今もぼんやりしてるっていうか…。
「久しぶりだな。何か元気なさそうに見えっけど…」
前会った時に元気がありすぎたせいか、その差は歴然としていた。
『少し物思いにふけっていてな…』
「物思い?」
俺は小首を傾げ、続く言葉を待った。
『そこにピアノが置いてあるじゃろ?』
爺さんが言う通り。部屋には一台の立派なグランドピアノが置かれている。
『わしはその音色が好きじゃった。いつもこの中から聞いていた。じゃが…』
急に黙りこくってしまった。一体どうしたと言うのか?
「何なんだよ?」
ダトニオ爺さんは辛そうにため息をつくばかり。
「なぁっ!!」
しばらくの沈黙が続いた。その間中、ダトニオ爺さんの目をじっと見つめていた。ダトニオ爺さんは困ったようにしていたが、俺はいつまで経ってもその場を離れなかった。そんな俺を見かねたのか呆れたのか、大きなため息をついた後、ようやく重い口を開いて話してくれた。
『あやつは死んでしもうた…。もう12年も前の事じゃ』
「それって……」
12年前…。心当たりのある数字。
『フィグリーナは嵐の夜に死んだのじゃ。このピアノはそれ以来、誰にも演奏される事なく眠りっぱなしじゃ』
フィグリーナ…?女の名前…だよな。
「その人って誰なんだ?」
聞き覚えのない名前だ。
『お前さんそんな事も知らぬのか?!呆れたもんじゃ…』
そんなに有名人なのか…。でも俺はこの城の昔を知らない。過去に、誰が城に住んで居たかという事も、何が起こったかという事も。『フィグリーナはかつて、この城の王妃じゃったのじゃ』
お、王妃……?王妃って国王の妻だよな。つまり…。
「ブレイブのお母さん?!」
『そうじゃ、そうじゃ。たしか息子はブレイブとかいう名前じゃったのぉ。今思い出したわい』
いやいや、普通忘れねぇだろ!!
ってか、魚にまで死を悲しまれる人だ。ブレイブの母親はきっととてもいい人だっただろうに。そう思うと辛そうにしていたあいつの顔、今でも忘れられない。
「♪~♪~」
『その歌は…どこかで聞いたことが……』
「え?」
湿っぽい話になってしまったので気晴らしにと鼻歌を歌ってみたんだけど…。何で爺さんがこの歌を知ってるんだ?これは俺が小さい頃によく母さんが子守歌として歌ってくれた、俺の大好きな歌。人間界でも歌われているものなんだろうか?
『まさかとは思うが……いや、その歌を知ってるんじゃ。間違いない』
「な、何だよ?」
『アズールよ、違うなら違うとはっきり言ってくれ』
声が固く真剣なものに変わる。
『お前さん、人魚じゃな?』
「えっ……」
何で…、何でわかったんだ?俺何にも言ってねぇのに。この爺さんエスパーか?!
『やはりそうなんじゃな?最初からおかしいと思ったわい。ただの人間にわしら魚類の声が聞こえるなんてな…。それに、魚のみ知られている歌を知ってるんじゃ。ピンときたわい』
年の功ってヤツか。爺さんになるまで生きていると、いろいろと知識が豊富になるもんだな。
「でもよ、その歌…友達とかは知らなかったぜ?」
人魚の時、俺の数少ない友達は誰ひとりこの歌を知らなかった。みんな首を横に振って、聞いたことがないと言っていた。
『当たり前じゃ。そう広く知られていない歌じゃからな』
じゃあ何で母さんは知ってたんだ?母さんの友達に物知りとかいなかったと思うし。
「それよりもやけに落ち着いているんだな。人魚から人間になった奴が目の前に居るっていうのに」
さっきからずっと同じ調子で話すダトニオ。冷静沈着すぎる。
『大方人間に恋したとかで人間になったんじゃろ?若いと何でもできるからうらやましいのぉ…』
す、鋭い…。何でもお見通しだな。隠し事とかしてても、見抜きそうなくらいだ。爺さんだからといって侮れない。
「爺さん、その事なんだけど…。内緒にしててくれっ!」
両手をぱんっと合わせ、頭を下げる。
この事だけは黙っててもらわないと本っ当に困る。
『わかっとる、わかっとる。墓場まで持って行くから安心せい!!第一、わしの声はお前以外の人間には聞こえんしの』
がははとダトニオが笑った時、ガチャッと急に部屋の戸が開いた。扉が少し開いただけで、隙間から覗く黒髪と背の高い体格が確認できた。
「ぶっ、ブレイブ?!」
「アズール!こんな所に居たのか」
安堵の息を吐くブレイブ。でも俺は、さっきの会話が聞こえていたのでは…と気が気でなかった。
「話し声が聞こえたから誰かと一緒かと思ったんだが…」
(そうか。こいつには魚の声は聞こえないんだ)
「いやぁ、そのぉ……。独り言、独り言」
ブレイブはふに落ちないという風だったけれど、すぐに気を取り直したみたい。
何か急ぎの用件があっただけかもしれないけど…。
「アズール、その…今暇か?」
「ああ。暇…だけど?」
爺さんと話してただけだしな。
「よかったら茶でも飲まないか?いい茶菓子が手に入ったんだ」
茶菓子…、菓子…、お菓子…。
…お菓子?!
「飲む、飲む!」
お菓子に釣られて、つい飲むと答えてしまった。
言ってしまってから、あっと思い爺さんを見た。
『行って来い』
優しく言ってくれた。
俺はブレイブに見えないように、親指を上に突き立てて爺さんに向かってピッと前に出した。
(サンキュー、爺さん)
『ほっほっほ』
爺さんの笑い声を聞いて部屋を後にした。