落水 :約2500文字 :コメディー
ある日の昼下がり。とある遊覧船の甲板には、観光客の楽しげな声が風に乗って流れていた。空には薄い雲が広がっていたものの、陽射しはその向こうから柔らかく降り注ぎ、季節を考えればむしろちょうどいい陽気だった。
海は穏やかで、揺れも大きくない。柔らかい風が海面を渡って肌を撫で、潮の香りが鼻腔をくすぐる。船は一定の速度を保ちながら水面を割って進み、その後ろには白い航跡が長く伸びていた。
船の周囲では海鳥たちが風に身を預けるようにして飛んでいる。手が届きそうな距離で船に並び、辺りに鳴き声を響かせていた。
観光客はそれを指さして写真を撮り、甲板は朗らかな空気に包まれていた。
手すりの近くに、ある若い男女のカップルがいた。彼女は片手に鳥の餌が入った紙コップとスマートフォンを持ち、もう片方の手で餌をつまんでは、近寄ってくる海鳥へ差し出していた。鳥が風を切りながら器用に近づいてくるたびに、彼女は楽しそうに身を引き、嘴が指先をかすめると「きゃ!」と声を上げてはしゃいだ。
その様子を隣で見ていた彼氏も「おおっー!」と彼女に合わせるように声を上げ、笑っていた。とても穏やかなひとときである。が――。
「あっ」
「あっ」
彼女がカップから次の餌をつまもうとした、その瞬間だった。カップと手のひらの間にわずかな隙間が生まれ、スマートフォンがするりと滑り落ちた。
彼氏は反射的に手を伸ばした。手すりから身を乗り出し、どうにかその端を指先で掴んだ――が、スマートフォンは指の間をするりと滑り抜け、そのまま海へ落ちていった。
青い海面へ向かって小さく回転しながら落下したスマートフォンは、船が立てる白波に呑まれ、その残像さえ泡のように記憶から薄れていった。
「うそ……え、待って。ちょっと、嘘でしょ、え、え……」
彼女は呆然と海面を見つめながら言った。視線はその場に釘付けになっていたが、船は何事もなかったかのように進み続け、スマートフォンが落ちた場所はどんどん後方へ遠ざかっていった。
「えっと……帰りに新しいの買いに行こっか。付き合うよ」
彼氏は気まずさに頬を引きつらせながらも、どうにか口角を持ち上げ、努めて明るい声でそう言った。
「信じられない……嘘……ありえない……」
「あ、ほら、補償サービスとかに入ってたら、タダで新品に交換してもらえるんじゃなかったかな」
「はあ……」
「まあまあ、誰かに拾われて悪用されるよりはさ……」
大した慰めにはならないだろうとわかっていたが、今の状況で口にできる言葉はそれくらいしか見当たらなかった。
「なんであそこで滑るかなあ……」
「いや、でもまあねえ……あ、写真や連絡先はクラウドにバックアップを取ってるでしょ。大丈夫だよ、大丈夫」
「一回掴んだなら、最後までちゃんと掴んでいてほしかったなあ……」
「手続きとか近くのショップとか、スマホで調べてあげるからさ……ん?」
「はーあ……なんなの、ほんと……」
「え?」
「ん、なに?」
彼女が顔を上げ、彼をじろりと睨んだ。
「いや、えっと……おれ?」
「なにが?」
「え、おれが悪いの……? いや、ははは、そんなわけな――」
「うん」
彼女は食い気味に言い、こくりと頷いた。
「え、え? いや、いやいや……」
「はーあ……はーあ!」
「いや、さすがにあれは無理だって!」
彼は思わず声を張り上げた。
「むしろよく掴みかけたなって褒めてほしいくらいだよ。おれだってちょっと危なかったし」
「そのまま落としたほうがまだよかった」
「はあ!?」
「一瞬助かったと思ったのに、期待させてさあ……はー!」
「いや、努力は認めてくれよ」
「心の中で感謝までしたんだよ? あの感謝を返して」
「まず現実で感謝してから言ってくれよ」
「飛び込んでたら取れてたよね。防水だし、まだ助かってたかもしれない」
「おれはずぶ濡れだよ」
「ねえ、あなたのスマホも落としてよ」
「なんで!? それで気が晴れるってこと……?」
「んー、七割くらい」
「なんで足りないんだよ」
「ねえ、今から飛び込んでよ」
「無意味だろ」
「それで六割くらいは晴れると思う」
「なんでスマホだけのときよりも少ないんだよ」
「はーあ、はーあ! はー!」
「なんでちょっとずつ音階が高くなってんだよ」
「ハアァァァー!」
「うるさ……」
「え、うるさい? うるさいって何? 彼女がスマホを海に落としちゃったんだよ。他に言うべきことがあるでしょ」
「急に正論……最初からそうであってほしかった」
「ねえ、ちょっとスマホ貸して」
「嫌だよ。絶対海に投げ捨てるだろ」
「じゃあお願い。落ちて……」
「もっと嫌だよ」
「五割だよ?」
「なんで減ってんだよ」
「四割……」
彼女はカップの中の餌を指先でちぎりながら、じりじりと彼との距離を詰めていく。
「無理だって」
「三割」
「どんどん減らしたところで焦らないぞ」
「二割」
「来るなよ。カウントダウンかよ」
「八割……」
「上がったところで得だなとはならんよ」
「九割ぃ……!」
「顔こわ……。え、まさか本気でおれのこと憎んで――」
「十!」
彼女は歯を食いしばりながら一気に距離を詰め、その勢いのままカップを彼に向けて傾けた。細かくちぎられた餌が雨のように降り注ぎ、彼の頭や胸元、肩に散らばった。
その次の瞬間だった。海鳥たちが甲高い声を上げて、一斉に彼めがけて突っ込んだ。
彼は「ぶあっ!」と声を上げ、両手で鳥たちを追い払おうとした。しかし翼に頬を叩かれ、嘴で髪をつつかれ、身体が大きくよろめき、手すりに腰を強く打ちつけた。
その羽ばたきの嵐の向こうから、彼女が身を低くして突っ込んでくるのが見えた。
そして――。
「ねえ、Siri。海にスマホを落としちゃったの……」
『まあ、スマートフォンを海に落としてしまわれたなんて、本当に胸がぎゅっと締めつけられる出来事でしたね。船の上は風も強く、足元も揺れますから、誰にでも起こり得ることです。ですから、どうかご自分を責めないでくださいね。大切にしていたものが、あっという間に手から離れていくあの瞬間って、心が追いつかないまま波だけが遠ざかっていくような感覚がありますよね。今は無理に立ち直ろうとしなくても大丈夫です。それだけ大切にしていた証拠ですから』
「うん……!」
「あ、それでいいんだ」
ポケットからスマートフォンを抜き取られた彼は餌と羽根にまみれたまま、AIに慰められる彼女を呆然と見つめることしかできなかった。




