また、君を殺しに来た。
その朝、空は少しだけ歪んでいた。
朝霧紬は、目を開けた瞬間にそれを感じた。
正確には「見えた」のではない。
違和感だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、一瞬だけ遅れて部屋に届く。
時計の秒針が、ほんの一拍だけ飛ぶ。
窓の外を横切った鳥の影が、羽ばたきより先に消える。
「……まただ」
紬は布団の中で小さく呟いた。
ここ数日、ずっとこんな感覚が続いている。
説明できない“ズレ”。
世界がほんのわずかに、現実から遅れているような感覚。
夢を見ているわけではない。
むしろ逆だ。
夢の方が、現実よりも“正しい”気がする。
ただ、その内容だけは思い出せない。
誰かがいた。
誰かに呼ばれていた。
そのことだけが、胸の奥に刺さったまま残っている。
⸻
制服に着替え、家を出る。
朝の通学路はいつもと同じだった。
同じはずなのに、どこか違う。
電柱の位置がほんの少しずれている気がする。
信号の赤が、長く感じる。
通り過ぎる車の音が、一瞬だけ途切れる。
「気のせい……」
そう言い聞かせるのは、もう何度目だろう。
紬は歩き続ける。
学校へ向かう道は、変わらないはずの一本道。
なのに今日は、やけに長く感じた。
⸻
教室は、いつも通り騒がしかった。
「転校生来るらしいよ」
「またこのクラス?」
「今月多くない?」
どうでもいい会話。
紬は窓際の席に座り、頬杖をつく。
外では風が吹いている。
校庭の砂が舞い上がる。
一瞬だけ、その砂の動きが止まったように見えた。
「……まただ」
小さく呟く。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
⸻
そのときだった。
教室の扉が開く音。
空気が変わる。
誰も何も言っていないのに、静かになる。
温度が下がる。
視線が一点に集まる。
転校生が入ってきた。
「今日からこのクラスに入る」
担任の声。
その横に立つ少年。
黒い髪。整いすぎた立ち姿。感情の読めない目。
ただ、それだけのはずだった。
なのに。
紬は息を止めた。
(……知ってる)
そんなはずはない。
初めて見る顔のはずなのに。
喉の奥が、ひどく乾く。
⸻
少年の視線が教室を一度だけなぞる。
そして止まる。
紬のところで。
まるで最初からそこだけを見に来たように。
数秒の沈黙。
誰も気づかないほど小さな動きで、少年は息を吐いた。
そして――笑った。
「……やっと見つけた」
その声は、誰にも届いていないはずだった。
なのに紬だけは、はっきりと聞こえた。
※
その日の授業は、何事もなく終わった。
何事もなかったはずだった。
だが朝霧紬はずっと、背中に視線を感じていた。
振り向いても誰もいない。
机に落書きがあるわけでもない。
窓の外に誰かがいるわけでもない。
それでも。
“見られている”という感覚だけが消えない。
⸻
放課後。
空は赤く染まっていた。
校舎の壁が、やけに鮮明に見える。
影が長く伸びている。
まるで世界全体が少しだけ傾いているようだった。
「少し、いいか」
背後から声がした。
振り向くと、昼間の転校生が立っていた。
紬は無意識に一歩下がる。
「……何?」
少年は表情を変えない。
ただ静かに言う。
「話がある」
「私に?」
「そうだ」
あまりにも当然のように言う。
理由も説明もない。
なのに断れない圧があった。
⸻
屋上へ向かう階段は、妙に長かった。
一段ごとに空気が重くなる。
風の音が遠い。
校舎の音が消えていく。
気づけば、世界から“人の気配”がなくなっていた。
「ここでいい」
少年が言う。
屋上の扉を開けると、夕焼けが広がっていた。
空が割れそうなほど赤い。
風が強い。
髪が揺れる。
その中で、少年はようやく紬を見た。
まっすぐに。
⸻
「君は明日、死ぬ」
唐突な言葉だった。
一切の前置きもない。
冗談でもない。
説明でもない。
ただの“確定”だった。
「……は?」
紬は笑いかけて、止まる。
笑えない。
喉が動かない。
少年の目は揺れていない。
「だから、今ここで終わらせる」
「終わらせるって、何を――」
言い終える前に。
少年が一歩踏み出した。
⸻
その瞬間。
世界が“折れた”。
音が消える。
視界が崩れる。
体が落ちる感覚すらない。
ただ一瞬だけ、強烈な違和感。
まるで――ページがめくられたような。
⸻
朝。
目覚ましの音。
カーテン。
光。
冷たい空気。
朝霧紬は目を開ける。
「……え?」
同じ部屋。
同じ天井。
同じ朝。
違うのはただ一つ。
胸の奥に、説明できない“痛み”が残っていること。
それは昨日よりも、少しだけ強い。
⸻
教室はざわついていた。
「転校生来るらしいよ」
「また同じクラスだって」
紬はゆっくり顔を上げる。
扉が開く。
担任の声。
「今日からこのクラスに入る転校生だ」
入ってくる少年。
昨日と同じ姿。
昨日と同じ視線。
そして。
紬を見て、ほんのわずかに笑う。
まるで“覚えている”ように。
⸻
沈黙。
教室の空気が止まる。
少年はゆっくりと口を開いた。
その声は、昨日とまったく同じだった。
「また、君を殺しに来た。」




