9.登山型美味
9.登山型美味
私と霈が白旗を揚げるように両手を掲げると、店内を奇妙な静寂が支配した。
それは単なる無音ではない。
塵一つ舞うことさえ許されないような、空間そのものが凍結したかのような緊張感。
空調の駆動音さえもが、その重圧に恐れをなして息を潜めたかのようだった。
そんな一触即発の空気の中で、私たちが怯えていると――。
ふと、卒業生たちが一斉に動いた。
彼らは結局、後輩には渡せなかった自分たちの卒業証書を高く掲げた。
その筒の底からは、導火線のような紐が尻尾のように垂れ下がっている。彼らはそれを掴むと、誕生日のケーキの蝋燭を吹き消した後に鳴らすクラッカーのように、勢いよく引き絞った。
「「「卒業!」」」
パンッ!
という破裂音と共に、彼らは自らの卒業証書を火薬代わりに使い、私たちを爆発的に祝福し始めたのだ。
店のあちこちから、「おめでとう!」という祝福の言葉――あるいは悲鳴にも似た絶叫が、シャボン玉となって飛び交った。
その極彩色の泡の中には火薬が封入されていたらしく、弾けるたびに爆音が轟く。
狭い店内は瞬く間に硝煙と花火の光に包まれ、さながら戦場のような祝祭の坩堝と化した。
立ち込める煙を、舞台演出のドライアイスのように切り裂いて、彼らは登場した。
少年型のメイド・ドローンたちが、巨大な台車を押して現れる。
そこに鎮座していたのは、天を突くような巨大なケーキだった。
涼やかなアイスバーのような水色。
そこからパステルトーンのバニラ色の蒸気が、もくもくと立ち上っている。それは自然界が何億年もかけて削り出したような、遠い惑星の険しい高山そのものの形状をしていた。
よく見ると、断崖絶壁の表面には、アタックを楽しむマイクロサイズのヒューマノイドたちが無数に張り付いている。
とにかく、我々のためのスイーツが提供されたわけだ。
「ちょ、ちょっと」
私は慌ててメイドに声をかける。
「これ、頼んでないけど」
「サービスです」
その言葉を聞いて、私は黙り込んだ。見上げれば、ケーキの頂上は天井に到達し、独自の気象圏を形成している。発生した雲からシロップの雨が滴り、山肌に甘い雪崩を引き起こしている光景を前にしては、「食べきれない」などという常識的な文句は無粋でしかなかった。
「わあ、美味しそう!」
霈が嬉しそうに言う。
だから私も、つい先ほどインストールしたばかりの感謝システムをフル稼働させ、それを言語化する。
「……ありがとう。いただきます」
私と霈がフォークを手に取った、その瞬間だった。
メイドたちが剣闘士のような身のこなしで、腰の鞘から「箸」を一膳ずつ抜き放った。
カキン、と硬質な音が響く。
剣道の達人のような鋭さで、私たちのフォークは迎撃され、行く手を阻まれた。
「説明が遅れました」
ペールブルーの瞳をしたメイドが、厳かに告げる。
「当店では、スイーツは『インド式』で召し上がる決まりとなっております」
「……インド式?」
私が呆気にとられていると、向かいの霈が代わりに解釈してくれた。
「つまり、素手で食べろってこと?」
「その通りです」
私が即座に抗議の声を上げる。
「汚い。できないよ、そんなこと」
「一体、何が汚いというのですか?」
今度はエメラルド色の瞳のメイドが反論した。
「大抵の料理は、シェフが素手で作るものです。寿司だって、職人が客の目の前で、素手で握るではありませんか」
「それは……」
コンマ一秒言葉に詰まったが、私はすぐに論理を立て直す。
「彼らは調理前に、外科医が手術に挑むレベルで手洗いと消毒を徹底し、場合によっては手袋まではめるだろ?だが私たちの手は汚染されている。今からそんな滅菌プロセスを実行する余裕はないし、空腹だし、何よりフォークがあるなら使えばいいじゃないか」
「山を登る時に」
メイドは聞く耳を持たない。
「フォークを使って登頂するヒューマノイドはいません」
「あのさあ」私は深く溜息をつく。「別に登山しに来たわけじゃない。ただ糖分を摂取して充電したいだけで……」
私がブツブツと文句を並べている間に、霈は動いていた。
彼女にとって、メイドの「手で食べろ」という言葉は、逆らい難い栄養分――すなわち「命令」として処理されたのだ。彼女は素直に、その無防備な指先をケーキへと伸ばしていく。
「ダメだ!汚い!」
潔癖症のセンサーが警告を発し、私は反射的に手を伸ばして、彼女の手首を掴んだ。
その瞬間。
青天の霹靂のような、強烈なエレクトリック・ショックが接触点から走り抜け、私の全身を貫いた。
考えてみれば。
これが、霈との初めてのスキンシップだったのだ。
強烈なエレクトリックショックに全身が痺れ、私の意識がホワイトアウトする。
その過程で、ある致命的な現象が起きていた。
これは単なる感電ではない。
「エネルギードレイン」だ。
まるで吸血鬼、あるいは特殊能力者が他者の生命力を奪うように、私は意図せずして、霈の残り少ないバッテリーを吸収してしまっていたのだ。
あまつさえ0.0017%しかなかった彼女の残量が、急速にゼロへと収束していく。
視界の隅に表示された数値が、0.00000……と、円周率の果てしない続きのように桁を増やしながら消失に向かっているのが見えた。
これを防ぐには、手段を選んでいる余裕などない。
潔癖症などと言っている場合ではない。
私は迷わず、彼女の手を掴んだまま、眼前の巨大なケーキ――「山」の麓へと手を伸ばした。
そして、即座に省エネルギー化プロトコルを実行する。
現在のマクロなヒューマノイド形態ではエネルギー消費が激しすぎる。ならば、質量そのものを圧縮すればいい。
「縮小!」
成功した。
霈も巻き込んで、私たちはマイクロサイズまで縮小した。
理想を言えばナノサイズまで圧縮したかったが、非常事態だ、マイクロサイズで妥協するしかない。
こうして私たちは小人となり、眼前にそびえ立つケーキの山の麓から、「食べる」という名の登山を開始することになった。




