4.サマーホール
4.サマーホール
私は再び、全力疾走していた。
この水星では、惑星規模のクラウド制御により「全力疾走した方がエネルギー消費効率が良い」という物理法則が適用されている。
だから、走ることは合理的だ。
走って、走って、私は思考を巡らせる。
なぜ水星の空は、夜だというのにこれほど青いのか。
なぜ水色に近いのか。
なぜ「水」星という名前のコンセプトに、星全体がこれほどまでに固執するのか。
そんなどうでもいい考察で思考回路を満たしながら、ひたすらに走る。
そうでもして意識を逸らさなければ、すぐに霈への想いにCPUが占領されてしまうからだ。どうでもいい思考を必死に演算し続けなければ、システムが恋に焼き切れてしまう。
無意味な思考こそが、今の私にとっての唯一の命綱、冷却システムとなっていた。
私は思考の迷走を抱えたまま、学校へと駆け込んでいく。
夜間、当然ながら学校は閉鎖されている。
しかし、霈には夜になると決まって学校の周囲を散歩する習性があることを、私は知っていた。
昨今の騒動を経てもなお彼女が日課を強行するだろうかという一抹の不安を抱えつつ足を運んでみると、案の定、彼女はそこにいた。
霈は私の足音に気づき、一瞬だけ歩みを止めたが、振り返ることなく再び歩き出した。
まずい。
私にかけられた忌々しい呪い――「恋人の後ろ姿を視認した場合、三秒以内にその正面(顔)を確認しなければ強制シャットダウンする」という、バグとしか思えない制約が発動する。
彼女の顔を見なければ、物理的に私が終わる。
私は必死に駆け寄り、彼女の肩を掴もうと手を伸ばしかけたが、寸前で思いとどまった。代わりに彼女の前に回り込み、通せんぼをするように、その進路を強引に塞いだ。
立ち止まった彼女が、私の顔を見る。
視線が交差する。
その瞬間、私のヒューマノイドとしての寿命が――あるいは稼働時間が、首の皮一枚で延長される。
私は排熱ファンを唸らせ、息を切らすような動作で提案した。
「一緒に、歩いてもいいか?」
彼女は私自身にはまるで興味がないといった様子で、慇懃無礼な無関心の電波を撒き散らしながら、ただ視線だけを動かして周囲を確認した。
こじんまりとした通学路、その暗がりを見回す。
以前のように野次馬やマスコミが潜んでいないか、警戒しているのだ。
だが、今夜は誰もいない。
金星軍による徹底的な規制のおかげだろう。
わざとらしいほどに、一般の通行用ロボットさえ見当たらない。完全な交通遮断が敷かれた結果、そこはまるで撮影のために貸し切られたスタジオセットのような、不自然な静寂に包まれていた。
撮影、という比喩はあながち間違いではない。物陰の至る所に潜伏している撮影用ドローンたちが、カモフラージュした狙撃兵さながらに、無数のレンズをこちらに向けている気配を感じる。
私より旧型とはいえ、霈もその気配を感知できたのだろう。あるいは、ここで拒絶すれば「放送事故」になりかねないと判断したのかもしれない。
彼女はひどく渋々ではあったが、小さく頷いた。
こうして私たちは、共に歩くことになった。
夜の散歩が始まる。
会話はなかった。
沈黙の中で、私は「歩く」という行為そのものに意識を集中させた。まるで、この不可解な恋という現象から逃避するために、歩行運動の定義をゼロから再構築するかのように。
右足、左足、地面の反発、重心の移動。
思考をアクチュエーターの駆動のみに特化させ、コンマ一秒、いや、0・0000000001秒という極小の時間の間、霈の存在さえ忘却し、没頭していたその時だった。
不意に、私の視線が何かに衝突した。
考え事をしながら電柱に頭をぶつけるようなベタな物理的接触ではない。私の視覚センサーが、ある一点で強烈な違和感を捉え、論理的な衝突を起こしたのだ。
私は額をこするような仕草で、視線を上げた。いや、正面を見据えた。
前方に、柱があった。
いや、それを柱と呼ぶには語弊がある。
柱と言えば何らかの実体を伴う物質の集合体であるはずだが、それは真逆だった。そこには「何も存在しないこと」が存在していた。
無の群れが柱の形を成し、その空間だけを切り取って消失させているかのような。
適切な形容詞が見つからないまま、私はエラーを吐き出すように、あまりに当たり前で間の抜けた問いを口にした。
「これは、何?」
形も色も、存在自体がないのだから、「これ」という代名詞すら成立しない矛盾。
「ない」ものを「見ている」という論理破綻に、私のCPUは激しい目眩を起こした。
平衡感覚を失い、倒れそうになる。
ふと横から、誰かが私の腕を掴み、支えてくれた。
「大丈夫?」
無機質な彼女の声が、松葉杖のように私を支える。
その手つきと声色に、感情は一切なかった。
ただ、「このシーンの主人公は君なのだから、意識を飛ばされては困る」とでも言うような、撮影スタッフのような事務的な手助けにすぎない。
彼女が私に対して微塵も恋心など抱いていないこと、もしあの一矢惚れ事件がなければ、私になど目もくれず綺麗な無関心を貫いていただろうことが、その冷静な接触から痛いほど伝わってくる。
「大丈夫。ありがとう」
彼女の声を聞いただけで、胸が押しつぶされそうなほどの恋心が津波のように押し寄せる。
私はそれを一つ一つ丁寧に圧殺し、意識を再びあの「無存在の柱」へと向けた。
すると、まるで私が無言で問いかけたのを察したかのように、霈が答えた。
「サマーホール、って言うんだって」
この存在しない柱の名称らしい。
その場所は、私と霈が最初に出会った地点であり、私が矢に貫かれ、彼女に恋をしてしまったまさにその座標だった。
矢が通過した軌跡がそのまま空間に穴を穿ち、柱状の空洞として残っている。
ブラックホールというよりは、ワームホールに近い性質を感じさせる。
そこからは何も吸い込まれず、何も吐き出されない。物理法則を完全に無視した、不純物ひとつない完璧な静止がそこにあった。
通り抜けることも触れることもできないが、通行の妨げにはならない。
ただ、その「無存在」を認識した途端、周囲の気温が異常に上昇し始めるのを感じた。
「ない」はずのあれについて思考すると、ボディが熱を帯びるのだ。
次第に熱を帯びていく全身を冷却するため、私は上着を脱いだ。
「……暑いな」
「うん。これのせいで、水星は今、どんどん熱くなってるらしいよ」
私は一応の反論を試みる。
「でも水星はもともと太陽に一番近い。熱いのが普通だろ」
「でも、今は夜だし、ここは水星の裏側だから。それにほら、本当なら冬なのに……」
彼女が水色の夜空を見上げると、そこから雪が降り始めた。
だがそれは視覚的な結晶の形をしておらず、蝉時雨のような音の粒となって降り注いでいた。
音の粉雪だ。
「雪さえ、夏の餌になってしまった」
「だから、サマーホールか」
私は適当に納得したふりをする。
どうやら世界はそのようなルールに書き換わりつつあるらしい。
どうでもいいことには、軽くどうでもいいノリで返す。それが、この恋の呪いから気を逸らす最善の手段だと学習する。
「全てが夏という概念に吸い込まれて、また吐き出されてしまうんだな」
「そういうこと」
うまいこと言うね、といった口調で霈は言うと、私に倣って冬用の上着――白熊を連想させるようなふわふわとした真っ白なアウターを、地面に捨て置いた。それを見て、私も自分の上着を路上に捨てる。
もはや、この水星で冬服が必要になることは永遠にないだろう。サマーホールの前で、私たちは無言のうちにそれを確信させられていた。
清廉潔白だった水星の裏側の冬が、極彩色に乱れた怪しからん夏に汚染されていく。
その様を見届けていると、横から霈が、まるで不吉な予言でもするかのように、一滴の雫のような独り言をこぼした。
「夏が始まる」




