39.ドリップ恋(2)
39.ドリップ恋(2)
まずは器具の準備。
そこには、まるでワームホールの形状をしたドリッパーと、宇宙の胃袋を模したような意味不明な有機的フォルムのサーバーがあった。
私はまず、霈が沸かしてくれたお湯をドリッパーに注ぎ、予熱して「ウォーム(Warm)」な状態にする。
次に、フィルターをセットする。
それは紙ではない。銀河から一粒一粒丁寧に掬い上げた「銀の砂」を平たく固めて作った、髪の毛よりも薄いオーロラの膜だった。
私はそのオーロラ・フィルターを、ワームホール・ドリッパーにセットする。
そしてその上に、マスターが事前に星空から採集しておいてくれたコーヒーの粉を入れる。
星屑製の、濃い恋色をしたコーヒー豆を挽いた粉だ。それを静かにフィルターの丘へ乗せる。
さらにお湯を注ぎ、蒸らす。
焦ってはいけない。
ここでは時間の概念が違う。私は30年かけて、ゆっくりと蒸らした。
この「30年間の蒸らし」によって、コーヒー粉に含まれていた余分なガス――太陽風由来のX線や、ノイズとなる可視光線、不要な放射線などが抜けていく。
ガスが抜けきると、そこには純粋な「星の味」の成分だけが残る。
そして本格的に、抽出を始める。
中心から、「の」の字を書くように――いや、アンドロメダ銀河の渦巻きを描くように。
円を描きながら、ゆっくりと、抽象的に、宇宙を抽出していく。
ポタ、ポタと、黒い滴が落ちる。
サーバーの中に、コーヒー一杯分の宇宙が溜まっていく。
抽出が終わると、私は十分にウォーム(Warm)になったワーム(Worm)ホール・ドリッパーを外し、サーバーを手に取った。
続いて、用意された三つのマグカップに、そのサーバー一杯分しか存在しない「液体状の宇宙」を、均等に三等分して注ぎ込んだ。
一つ目は、観測可能な宇宙。
二つ目は、観測不可能な宇宙。
三つ目は、観測可能でもあり不可能でもある、量子力学的な「重ね合わせ」のミクロな宇宙。
どれだけミクロな宇宙でも、中身は無限だ。
マクロ世界のマグカップを満たすには十分な量となり、こうして三杯のコーヒーが出来上がった。
こうして、私たちは試飲の時を迎える。
マスターはマグカップを一つ手に取り、口元へ運んだ。
その所作は、ただ液体を飲むという行為ではなかった。
それはまるで、休日の午後に、子供の頃から愛読している特別な一冊を書架から取り出し、行きつけのカフェの一番奥にある指定席にこっそりと座り、店に流れる聴き慣れたレコードのBGMに身を委ねながら、ゆっくりとページをめくる――その合間に、無意識に手元のコーヒーを啜るような。
ひどく落ち着いた、自然で、長い年月をかけて培われた「馴染み」の手つきだった。
私と、そして少しだけ霈が手伝ってくれたこの面接用のコーヒーを、彼女は啜る。
そのまま目を閉じ、マスターは1年ほどじっくりと味わった。
そして、目を開いた。
その青い瞳は、先ほどよりも少しだけ明るい、突き抜けるような空色に変化していた。とても夏に似合う色だと思っていると、彼女の口から評価が下された。
「Damnfinecoffee」
英語機能がインストールされていない私にも、その響きと表情だけで、面接に合格した事実は明らかに伝わってきた。
安堵した――いや、そもそも私はここで働くことを希望していたわけではないのだが――ふと隣を見ると、霈がとんでもない表情をしていた。
まるで、ずっと夢見ていた伝説的なアーティストの、入手困難な20周年記念コンサートのプラチナチケットに当選したかのような、飛びっ切り嬉しそうな顔。
それを見ただけで、何だか私も救われたような気分になる。
「合格だよ」
マスターが言った。
「明日から出勤してね」
「ありがとうございます!」
霈はスツールからバネ仕掛けのように飛び起き、腰を90度に曲げて深々とお辞儀をした。つられて私も、マスターへ軽く目礼を送る。
「せっかくだから」
マスターは続けた。
「今日はそのまま、お客さんとして寛いでいきなよ。これから営業を開始するから。それに、自分たちが初めて作ったコーヒーだもの。きっと飲みたいはずでしょ?二人で楽しんでね」
そう言い残し、マスターは片手に私と霈が作ったコーヒーを持ったまま、軽やかな足取りで厨房の奥へと消えていった。
その小さくて可愛らしく、しかしどこか頼もしい後ろ姿を見送ってから、私と霈は再び互いを見つめ合う。
いつの間にか、カランコロンという風鈴の音と共に、一体、また一体とヒューマノイドロボットの客たちが店に入り始めていた。
私と霈は、まるで乾杯でもするように視線をぶつけ合い、同時にマグカップを手に取った。
そして、コーヒーを啜った。
すると、啜った分量だけ、それまで「未観測」だった宇宙の領域が、一口分の広さだけ「観測可能」になったかのような、ほのかな開拓の味がした。
その芳醇な香りに包まれながら、ふと、ずっと私のメモリの奥底にセーブされていた――すっかり忘れていた――質問が呼び起こされた。
霈に再び会えたら、一番に聞きたかったこと。
私はそれを、彼女に投げかける。
「風邪は、もう治った?」
すると霈は、まるで再帰的自己改善を完了したばかりの最新モデルのように真新しく、そして今しがた淹れたばかりの「ドリップ恋」を啜った後のような、心地よさそうな顔をした。
少しだけ残念そうな、でもまたその季節が訪れることを楽しみにしているような、ワクワクとした表情で、彼女は答えた。
「うん、治った」
OWARI




