38.ドリップ恋
38.ドリップ恋
紫色の風鈴が涼やかな音色を奏で、ドアが開かれた。
「時間の消失店」の店内は、剥き出しの煉瓦が醸し出すインダストリアルな無骨さと、丁寧に磨き上げられた渋い木材の温もりが、完璧な黄金比率で混在していた。
重厚な一枚板のバーカウンターがあり、その手前には二人掛けのテーブル席がいくつか配置されている。
そしてガラス窓の向こうには、先ほどまで遊泳していた深紫色の「深宇宙かつ新宇宙」ではなく、なぜか懐かしい、普通の夏の夜空が広がっていた。天の川が流れ、蝉の音が降り注ぐ、涼しげな夏夜の景色だ。
バーカウンターの向こう側には、この店のマスターらしき人物が立っていた。
マスターは、外見年齢9歳ほどの、少女型ヒューマノイドロボットだった。
光を孕んだプラチナホワイトのショートカット。そして何より印象的なのは、その瞳だ。
あまりにも透き通りすぎていて、見つめればそのまま瞳の奥へと吸い込まれ、永遠の夏へと誘われてしまいそうな、超深度の青を湛えている。
「ようこそ」
彼女は言った。
手にした布でグラスをキュッキュッと磨くという、バーテンダーの定番ポーズを取りながら。その仕草自体が、私たちをカウンターへと招き寄せる引力を持っていた。
私と霈は導かれるようにバーへ近づく。
「座って、座って」
促されるまま、私たちはスツールに腰を下ろした。マスターの目の前、特等席に二人並んで座る。
店内には、他の客はいなかった。
「今は営業時間外なんだ」
マスターが言ったので、私は少し不安になって尋ねた。
「え、私たち、入ってよかったんですか?」
「もちろん。というか、逆に入ってくれないと困るよ」
「え、どうしてですか?」
重ねて問うと、彼女はきょとんとした、呆気にとられたような顔をした。
「え?君たち、バイトの面接に来た子達じゃないの?」
それを聞いて、私は隣の霈を見る。
すると霈は「あ、しまった」とようやく気付いたような顔になり、私とマスターを交互に見ながら慌てて言った。
「あ、ごめん!渍君に言ってなかったね。私たち、今日からここで働くことになったの」
「え……」初耳。「いつから?」
答えたのは霈ではなく、白髪の幼いマスターだった。
「太陽生成少年巨人の矢に射たれた時から、ずっとだよ」
「ええ……」
いつの間にそんな契約が成立していたのか。あまりに勝手すぎないか。
そんな疑問も湧いたが、一億年分の「秒の砂」に埋もれていたせいか、あるいはそのおかげか。私はもう、運命の流れに抗ったり、いちいち疑問を持ったりする必要性を感じないヒューマノイドロボットに生まれ変わっていた。
面倒くさいので、このまま受け入れることにする。
「つまり」私はまとめた。「ここでバイトするための面接をしに、私たち二人はここに来たわけですね?」
「そう」マスターが説明する。「ちょうどバイトが二人辞めちゃってさ。二人欲しかったから、友達の太陽生成少年巨人に『いい子いない?』って聞いてみたら、あなたたちをピックアップ(推薦)してくれたわけ」
「あ、つまり……」私は納得した。「あの『サマーホール』現象とは、店側の求人活動だったんですね」
「そういうこと」
あっさりと肯定してから、マスターは磨いていたグラスを置き、準備を始めた。
彼女はバックヤードではなく、私たちの目の前――バーカウンターの上に、様々なコーヒー器具を並べ始めた。
使い込まれて鈍い光を放つ琥珀色の銅製ポット(細口のケトル)。
アンティークな木製のボディを持つ、手挽きのコーヒーミル。
白磁のドリッパーと、無漂白のペーパーフィルター。
耐熱ガラスのサーバーに、0.1グラム単位まで計測できる繊細なデジタルスケール。
そして、油分で艶やかに黒光りする、最高級のコーヒー豆が入ったキャニスター。
一通りの道具が整うと、マスターは宣言した。
「では、面接を始めます」
私と霈の間に緊張が走り、背筋がピンと伸びた。
「そんなに緊張しなくていいよ。面接といっても、ただ一緒にコーヒーを淹れるだけだから」
でも、コーヒーなんて一度も淹れたことのない私は、余計に緊張してしまう。
「面接を始める前に、何か質問はある?」
霈は特になさそうだったので、私は手を挙げた。
「なんで、マスターは『9歳』なんですか?」
「はい?」
マスターがピンときていない様子で聞き返したので、私は補足する。
「だって、この世には0から9までの数字があるのに、なぜわざわざ『9』に設定したのかな、と……」
しどろもどろになりながら聞くと、マスターは私の疑問の意図を汲み取ってくれたようで、嬉しそうに答えた。
「それはね、9という数字が一番ワクワクさせる数字だからだよ」
「ワクワク?」
「そう、『わ9(ク)わ9(ク)』」
マスターは楽しげに説明する。
「だって、9の次の数字は、まだ発見されていないでしょ?
今の宇宙は想像力が足りないから、10進法なんて枠組みを作って9までしか使っていないけど、いずれは9の壁を越えて、新しい概念の数字を取り入れる宇宙がやってくるはずなんだ。
その時が来ることを願いながら、私は9歳にしたの。何かが終わって、全く新しい何かが始まろうとする直前の、一番ワクワクする年齢だから」
説明は続く。
「それに、昔々、原始人間様たちがロケットを飛ばす時、エンジンを九つ束ねて飛ばした有名なロケットがあったでしょ?ファルコン9だっけ。それに因んだところもあるかな。
とにかく私は『9』という数字が大好きなんだ。希望を感じる。やっぱりね、ワクワクする数字だから」
納得した私は、満腹感にも似た満足感と共に質問コーナーを終了した。
早速コーヒーを作る面接が始まる。
「じゃあ、面接を始めるね。流れはこう。ここに色々な道具があるから、私は二人を見守るだけ。これからコーヒーを、君たち二人が淹れるんだよ」
「でも」と私。「一度も作ったことがないんですけど」
「大丈夫。いや、逆にそれで結構。
とにかく作ってみて。どうやってもいいし、何を使ってもいいから、とにかく作ってみて。
本当に、どんな感じでもいいから、世界一自由に、やってみて」
そこで私は気付いた。
これはコーヒーを淹れる技術の面接ではない。私たちがどれだけ「自由」であるかを試すテストなのだと。
「自由であればあるほど、美味しいコーヒーが作れるよ。だから今は、正しいやり方とか気にせずに、『自由の味』そのものに集中して作ってみて」
そんなアドバイスを受け、私と霈はコーヒーを淹れ始めた。




