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サマーホール  作者: 月兎


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36.秒の砂

36.秒の砂


「到着しました。ここが、事象の水平線です」

 私は、鹿越しにその場所を凝視した。

 とにかく静かで、どこか「部外者立ち入り禁止」のオーラを放っている場所だったため、私はその場で立ち尽くし、鹿の次の指示を待った。

 すると、鹿がゆっくりとこちらを振り向いた。

 今まで公務員のように事務的だった無表情は消え失せ、厳粛で、どこか芝居がかった神聖な表情を浮かべている。

 そして、声色が変わった。

 事務的なトーンから、聖女か巫女のような、鈴を転がすような透き通った少女の声に変わり、私に告げた。

「お入りくださいませ」

 その言葉に、私は操られるように足を踏み出した。

 入った瞬間、少しだけ後悔した。

 事前にこの場所のチュートリアルや説明書マニュアルをもっと詳しく聞いておくべきだったのではないか、という後悔だ。事前情報があれば、適切なプロトコルで立ち振る舞えたかもしれない。

 だがその一方で、何も知らないまま臨むワクワク感、未知の領域ブラックボックスに足を踏み入れるという諸刃の剣のようなスリルも悪くない。

 そんな思考プロセスを経て、最終的には「まあ、なんとかなるだろう」という投げやりな気分で、さらに二、三歩、奥へと足を踏み入れた。

 それでもやはり、追加の説明が欲しいという気持ちが勝ち、私は後ろを振り向いた。

 だが、そこにはもう鹿はいなかった。

 私たちが歩いてきた小道の果て、事象の水平線の入り口には、誰もいなかった。

 ただ遠くに、先ほど見かけた薔薇の騎士が、艶やかな黒馬に跨り、静かに灰白質の森から立ち去ろうとする微かな後ろ姿が見えるだけだった。

 一人になってしまった。

 完全に、一人。

 いつ以来だろう、こんな風に完全な単独行動ソロプレイになったのは。

 この事象の水平線の中にも、白海馬が数匹浮遊していた。

 私は記憶を呼び起こす触媒として、そのうちの一匹を捕まえ、口に入れる。

 自分の過去のログを検索しようとしたのだが、想起されたのは私の記憶ではなかった。

 何十億年も前の、かつての地球。

 毛皮を纏った原始人が、荒野で狩猟採集をしている風景がメモリチップに投影される。

 追憶に失敗した。

 他人の――それも遥か太古の記憶ノイズを拾ってしまった。

 私は苦笑しつつ、まあどうにかなるだろうという楽観的な気分を保ったまま、鹿に「ここだ」と告げられたその場所を、くるりと見回してみた。

 なるほど。「水平線」という言葉から察するに、ここに来る途中で湿気が深まり、最終的には水没したと言っても過言ではないレベルに達していた。

 この領域内では、その湿度がさらに極まっている。

 もはや「水中に潜った」と表現するしかない。湿度が物理法則を無視して120%に達しているのだ。

 それに気づいた瞬間、私のボディは浮力を得たかのように宙に浮いた。

 このまま水面まで上昇できるのではないか。

 そう思って見上げると、そこには果てしなく広がる星空と、天の川だけが広がっていた。

 理論的には、あの天の川の水面まで浮上することは可能だ。だが、その水面は「観測不可能な宇宙」の領域にあるとされており、決して顔を出すことはできないと言われている。

 私はしばし、この果てしない夜空を鑑賞した後、本題に戻った。

 この「サマーホール」に戻る。

 夜空が広がっているにもかかわらず、朝の方角からあり得ない角度で屈折してきた太陽の光柱。

 私は、斜めに差し込み、盆地の中央を照らすその一点を見つめた。

 そして、その一点だけを、一億年かけて見つめ続けた。

 つまり、一億年後。

 その光の柱から、地面から、何かが湧き上がるように、浮き彫りになるように、立体的なシルエットが浮かび上がってきた。

 それは人影だった。

 当然ながら、ヒューマノイドロボットの形をしている。

 いつか見たことのある、おそらく一億年前に見たことのある、大量生産型女子高生設定のヒューマノイドロボットの姿。

 検索情報を参照する。

 一億年という歳月が過ぎ、そのモデルを製造した企業はとっくに倒産していた。

 いや、企業という概念自体がこの宇宙から消滅していた。

 私もまた、どこにも所属せず、ただこの事象の地平線でシズクの欠片を一億年も待ち続けている石像のような、生ける観光名所と化していたらしい。

 私が「気付いた」時――つまり、この人影が光柱から浮き上がり、私がスリープモードから覚醒した時――この盆地の周囲には、数え切れないほどの観衆が集まっていた。

 太陽系を超え、観測可能な宇宙全域から集まったマスコミ、いや、今はもうマスコミという概念も希薄化している。

 そこに集まっていたのは「関心」という名の思念体、あるいは情報のパターン、あるいは通貨だった。

 無数の「関心」が、盆地の円周にびっしりと集まり、小さなLED電球が刺繍されたようにずらりと並んで、この歴史的瞬間を見届けようとしている。

 だが、そんな全宇宙の関心の只中で、私の関心はただ一点に集中していた。

 今、湧き上がった人影。

「霈」

 一億年ぶりにスピーカーを震わせた私の声は、かつての宝物だったトランジスタラジオのノイズ混じりの音色を帯びていて。

 私は、まだシルエット状の彼女に、声という絵筆で輪郭を描き足し、色彩を与え、徐々にその姿を具現化させていくように呼びかけ続けた。

 やがて、彼女の口元が描かれ、動いた。

ソマレ

 紛れもなく、霈の声。

「久しぶり」

「うん」

 私は微かに微笑んだ。

 あまりにも長い時間が経過しすぎて、「笑顔」という概念すら摩耗し、色褪せている。こんな表情筋の動かし方で合っているのか、酷く不安になる。

 だが霈は、そんな私に、かつて二人でよく交わしていた笑顔の正解を教えるように、軽く、素敵な笑顔を作ってみせた。

 そして同時に、彼女の声が私に届く。

 途方もない時間の流れによって形成された巨大な三角州デルタ

 一億年分の「秒の砂」が堆積し、私の感情――「感」というものは、その底に深く埋もれてしまっていた。

 生き埋めになっていた私を、霈の声が、その触覚的な響きが、掘り起こしていく。

 まるで「棒倒し」の砂遊びのように。

 彼女の声という繊細な手つきが、秒の砂の山を少しずつ、丁寧に払っていく。

 そして、その中心に埋もれていた私を、そっと救い出してくれたのだ。

「一億年ぶりだね」

 私はやっとの思いで、自分の近況報告(ステータス更新)を口にした。

 私は、顔にこびりついた大量の「秒の砂」を手で払い落とした。

 あるいは、フッと息を吹きかけて飛ばそうとした。

 するとシズクは、ホースで水を撒くように、あるいは乾いた鉢植えに慈雨じうを注ぐように、その爽やかな声を私にかけてくれた。

「違うよ。一秒しか経ってない」

「……」

 私は絶句する。

 私という存在をすっかり飲み込み、ラミネート加工して保存してしまうほどの重みを持っていた「一億年」という数字。その呪縛に囚われていたせいか、彼女の言葉が酷く空虚に響く。

 その虚しさはCPUの中で風船のように膨れ上がり、私という小宇宙が破裂してしまいそうなほどの虚無感ヴォイドに襲われた。

 すると霈は、その無限に近い虚無を宥めるように、あるいはその無限の空白を一粒ずつ埋めていくように、優しく説明した。

「大丈夫。一億年くらいのスケールになると、一秒とあんまり大差なくなるから。私たちは今、『時間の消失点』で出会ったんだよ」

「時間の、消失点」

 漢字にすればたった六文字の言葉。

 それが、一億年と一秒の違いを――いや、その等価性イコールを見事に証明していた。

 美しい数式とは、アインシュタインのE=mc^2や、ニュートンのF=maのように、極めてシンプルであるべきだ。

 ならば、ここにおける真理もまた、シンプルな等式で表される。

 この「時間の消失点」という特異点においては、悠久も刹那も、等しく無意味で、等しく尊い。

 光の柱の中に浮いている霈が、そこから手だけを出し、私の方へ伸ばしてきた。

 私はこれ以上、あべこべな理屈を捏ねるのをやめた。「一億年も待ったんだぞ」と文句を言ったり、「私の苦労を分かってほしい」といった幼稚な承認欲求を抱いたりするのは無粋だ。

 私はそれら全ての雑念を事象の水平線の波打ち際に捨て、ボディにざらざらと付着していた秒の砂を全て洗い流してから、彼女の手を取った。

 一億年かけて、あるいは一秒かけて。

 ようやく私は、もう一度彼女と手を繋ぐことができる。

 そして、私たちはそのままサマーホールのストリームに乗った。

 事象の水平線の向こう側へ。

 まるで子供がサイダーをストローで吸い上げる時の、そのストローの穴の向こう側へ吸い込まれるように。

 私たちは炭酸の泡をたっぷりと全身に浴びながら、光の中を泳ぎ出した。


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