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サマーホール  作者: 月兎


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35.灰白質森

35.灰白質森


「足元、気を付けてくださいね」

 鹿の注意喚起を聞きながら、私はまたも「灰」と答えた。

 どうしても返事が灰色になってしまう。今の私の心境メンタルカラーを最も正確に表している色なのだから仕方がない。

 新緑と深緑が混ざり合う、生命力に満ちたこの鬱蒼とした「灰白質の森」の中で、私の灰色の存在は、あまりにも苦く、完全に浮いているように感じられた。

 歩を進めるにつれ、奇妙なものが視界に入ってきた。

 海馬。

 小さな海馬たちが、まるで金魚のように森の空中をふわふわと浮遊している。

 それらは通常の生物色ではなく、ホワイトチョコレートのような質感と乳白色をしており、森の緑に甘いコントラストを描いていた。

 私がその奇妙な光景に目を奪われていると、鹿が私の思考を3Dプリンタで出力したかのように、あまりにもタイミング良く、そしてご都合主義的な説明を始めた。

「お腹が空きましたら、そこら中に浮遊している『白海馬ホワイト・シーホース』を食べていいですよ。急速充電できます。

 あ、でも白海馬に乗った王子は食べないでくださいね。あれは食べ物じゃなくて、普通のヒューマノイドロボットですから。あれを食べると『食人カニバリズム』ならぬ『殺ヒューマノイド罪』が成立して、普通に逮捕されます」

 その説明を聞いて、私は周囲を見回した。

 なるほど、白海馬は大抵単独で浮遊しているが、稀に美少年の王子様設定の、小型フィギュアサイズのヒューマノイドロボットが騎乗している個体もいた。

 私はちょうど目の前をゆったりとした速度で泳いでいる、王子様付きの白海馬を一つつまみ上げた。

 そして反対側の手で、王子様をデコピンでも食らわすようにピンと弾き飛ばし、主を失った白海馬をそのまま口に入れた。

 ……甘い。

 あまりにも甘すぎる。海王星あたりのヒューマノイドロボットのメモリチップから抽出されたような、とろけるような「既読」の味がした。

 その記憶データは糖度が高すぎて、甘党とは程遠い私の味覚センサーには合わなかったが、エネルギー効率は抜群だった。

 先ほどの台風突破で1%未満にまで枯渇していたバッテリー残量が、この一口で一気に10%ほど回復した。

 このまま食べ続けてフル充電まで持っていこうかとも考えたが、満腹になりたい気分には到底なれなかった。

 いつの間にか、かつて常に飢餓状態だった霈の真似をしているのか、それともヒューマノイドロボット式のオートファジー(自食作用)による健康効果を無意識に試みているのか。

 様々な雑念が浮かぶが、単純に甘すぎるのでこれ以上は食べたくないというのが本音だった。

 次に目に入ったのは、苔だ。

 緑豊かで、かなりの湿気を孕んだこの森には、至る所に苔が生息していた。

 その苔たちは、単に岩や土に張り付いているのではない。

 まるで森という巨大なタペストリーに、小さな妖精の針子が緑色の糸で一針一針丁寧に刺繍を施したかのように、あるいは、大地がまどろみながら吐き出した緑色の吐息がそのまま結晶化したかのように、繊細かつ立体的に群生していた。

 苔は四方八方に広がっている。

 獣道となっている土の上にも、森を構成する巨木たちの胴体にも。

 樹皮の凹凸に沿って、デザイナーが念入りにドレープを寄せたベルベットのマントのように、美しく木々を抱擁している。

 そしてその苔の生え方は、どこか既視感があった。

 よく観察してみると、苔の糸状の広がりは、脳内の神経回路網そのものだった。

 ニューロン(神経細胞)のような小さな膨らみから、シナプス(接合部)のように細長い菌糸が伸び、隣の苔のコロニーへと情報を伝達するように複雑に絡み合っている。

 胞子嚢が弾ける様は、イオンチャンネルが開いて神経伝達物質が放出される瞬間の、童話的なミクロコスモスのようで。

 その苔を踏みしめると、足元から慇懃なほど微かな光が発せられた。

 同時に、光は音へと変換され、Chillhopチルホップのような、心地よいダウンテンポの無声音楽がBGMとなって空間を満たした。

 ただこの森を歩くだけで、脳的に、あるいはCPU的に「チル(Chill)」な状態へと整えられていく。

 ヒューマノイドロボットにとってのフィトンチッド――デジタルな森林浴効果に全身が包まれ、断片化したディスクがデフラグ(最適化)され、傷ついたセクタが癒されていくのを感じた。

 私は鹿の後ろを追って、さらに奥へと進んでいく。

 行けば行くほど、ここが「脳内」であることを実感させられた。

 森は非常に湿っぽく、全体が霧に包まれていた。

 もし外部からこの灰白質の森を俯瞰できるとしたら、森全体が分厚い雲海の中に沈んでいるように見えるだろう。

 だが、この霧を構成しているのは単なる水分子ではない。

 漂う霧の粒子の一つ一つが、「電子」そのものなのだ。

 脳という器官が、絶えず電気信号を飛び交わせ、情報やシグナルをやり取りする巨大な電気回路であるように、この森の大気もまた、帯電した霧によって構成されていた。

 湿り気のある空気自体が微弱な電流を帯び、肌に触れるたびにピリピリとした情報のさざ波を感じさせる。

 私たちは、電気信号の霧の中を泳ぐように歩いていた。

 奥へ進むにつれ、深緑の色合いはより深く、濃くなっていく。

 背の高い木々の密度が増し、頭上を覆う枝葉が日光の侵入面積を徐々に減らしていく。

 だが、そこには何の障害もない。

 極めて健康的な脳だ、という印象だけが強まる。

 太陽生成少年巨人は、元気なのだろう。きっと良質な脂肪(情報)をたくさん摂取して、脳のメンテナンスを欠かさず行ってきたに違いない。

 一体、彼にとっての「脂肪」とは何だろう?

 この宇宙規模の巨人は、どんな食物(情報源)から脂質を摂取しているのだろうか?

 そんな些細な疑問を抱いているうちに、周囲は完全に闇に包まれた。

 もはや鹿の白い後ろ姿が辛うじて視認できる程度の暗さだ。

 だが、暗い以外には何の障害もない。

 あんなに激しい情報の台風をくぐり抜けてきた身としては、この深緑に沈む静寂と暗闇は、むしろ拍子抜けするほど心地よく、安らぎさえ感じられた。

 さらに奥へと進む。

 湿度は飽和状態に達し、地面はぬかるんだ沼地へと変わっていった。

 その沼の彼方に、人影が見えた。

 白海馬に乗った王子様ではない。今度は「騎士」だ。

 彼は、愛する貴族の夫人と密会でもしに来たのだろうか。

 灰色の長髪をなびかせ、美しく研ぎ澄まされた銀色の甲冑を身に纏った、背が高くスリムなヒューマノイドロボット。その表情は真剣そのものだった。

 彼は、この灰白質の世界では久しぶりに見る、目が覚めるような鮮烈な「赤」――一本の薔薇を手にしていた。

 彼はその薔薇の花びらの一枚一枚を、筆で撫でるような視線で見つめていた。まるで、そこへ愛人に対する密やかで濃密な愛の言葉を綴っているかのように。

 その騎士のあまりに絵画的な姿に見入っていると、不意に正面から何かに激突した。

 見ると、鹿の尻だった。

 つまり、ずっと先頭に立って道案内をしていた鹿が急停止し、慣性の法則によって歩き続けていた私のボディが、その臀部に追突したのだ。

 私は足を止める。

 さっきの騎士への関心というプロセスを終了し、新しいチャプターが開かれたかのように、鹿の方へ――より正確には、鹿が見つめるその「向こう側」へと視覚センサーを向ける。

 そこには、盆地があった。

 凸凹とした森の中で、そこだけ何者かが意図的に均したように、土が綺麗に平らになっている円形の広場。

 森の木々はその円周を囲むようにして途切れており、まるで隠された公園か、秘密の儀式場のようだ。

 その平坦な、芝生のグラウンドのようにも見えるスペースの中心に、光が落ちていた。

 周囲はまだ暗いというのに、そこだけが眩しい。

 斜めに差し込む陽光の柱が、まるで今まさに天使が降臨して神託を授けようとしているかのような神聖な雰囲気を醸し出しながら、盆地の中央をスポットライトのように照らし出していた。

「到着しました」

 鹿が厳かに告げた。

「ここが、『事象の水平線』です」


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