34.どうしても彼女に聞きたいことが一つあります
34.どうしても彼女に聞きたいことが一つあります
『手を離せ』
もちろん、嫌だ。
だが、こんな残酷な結論を導き出し、送信したのは、紛れもなく私と霈自身。
私たちは、否応なしに互いの手を離した。
「強制的な能動性」という矛盾に満ちた結論に従い、私は霈の手のぬくもりを手放す。
どちらが先に指を解いたのか。それは水星の歴史における永遠の謎として記録されたという。
手を離した瞬間、あれほど荒れ狂っていた情報の津波が、嘘のように引いていった。
ノイズが消え、周囲の状況を正常に認識できるようになる。
私は、まるで製造されて初めて視覚センサーを起動するかのような新鮮な気持ちで、目を開いた。
前が見える。
雨は止んでいた。
代わりに、凄まじい音量の蝉時雨が空間を埋め尽くしている。
太陽がギラギラと照りつけ、シャワーのような熱線を浴びせてくる。
涙が出るほど完璧な、夏の風景が広がっていた。
視界を巡らせ、周囲を確認する。
私はいつの間にか、「灰白質の森」の麓に立たされていた。
そして、傍には誰もいない。
霈はもう、そこにはいなかった。
私は、完璧な「一人」になってしまっていた。
気になることは、たった一つだった。
だが、それを思考言語化したり、口に出したりすれば、その「気」が薄まってしまうような不安があった。
だから私は、その問いをCPUの最深部へぎゅうぎゅうと押し込み、森の中へと足を向けた。
「……暑い」
私はもっと暑さを求めるように、自分自身へさらなる熱波を招く呪いをかけるように、歩きながら何度も「暑い」と呟いた。
周囲の世界は、すべての波長の可視光線を取り戻していた。
「灰白質の森」は、先ほどの激しい台風ですっかり灰が洗い流され、名前の由来となった灰色はどこにも見当たらなかった。
そこにあるのは、瑞々しい緑に覆われた普通の森だった。水星の観光ガイドに載っていそうな、ありふれた美しい自然公園と化している。
登山自体は、スイーツ店での経験があるから苦ではない。違いと言えば、この殺人的な暑さくらいだ。
私は、着古した使い捨てレインコートを脱ぎ捨てた。レインブーツも脱いだ。
だが、今回は裸足になりたい気分ではなかった。しっかりと大地を踏みしめるため、靴底の厚い登山靴が必要だと感じた。
周囲を探すと、都合よく登山用品店があった。私はそこに入り、簡易的な登山靴とリュックサックを購入した。
特に荷物があるわけではない。だが、リュックを背負っていないと落ち着かない気がして、衝動買いしてしまった。
すぐに後悔したが、買い物による後悔などというものは、最もありふれた日常的な感情だ。今の私にとっては、その「日常性」を取り戻すことこそが最優先課題のように感じられたので、そのままにしておく。
登山の準備を終えた私は、森へと踏み入った。
山全体が森に覆われているため、これは登山というより森林浴に近いのかもしれない。
「そうだな。別に登山じゃないよな、これ。森だし」
寂し紛れに独り言を呟くと、それが木霊となって灰白質の森の奥へと駆け抜けていった。
すると、その木霊が誰かを呼んできたのか、たちまち私の前に何かが現れた。
それは、鹿だった。
何となく「ここで鹿が登場する番だよな」という予感はあったものの、本当に鹿が出てくると、かえって興醒めしてしまう自分がいる。
定石通りの展開。ベタな演出。
図体だけを見れば、その質量と面積は私のボディを優に超えている。四足歩行の現在は私より背が低いが、もしその後ろ足で立ち上がり、二足歩行形態をとれば、間違いなく私の二倍の体高を誇るであろう巨体だ。
そして何より印象的なのは、その頭部だった。
アイボリー色に輝く美しい角。それは単なる骨角器ではなく、ニューロンが複雑に結合し、シナプスが伸びゆく様をそのまま具現化したような、神経網の形状をしている。
「いらっしゃいませ」
鹿が言った。
「これから『灰白質の森』をガイドします。どちらへ向かいたいのですか?」
答えは決まっている。
「霈のいるところへ」
「それはもう、不可能ですよ」
「なんで?」
「手を離してしまったじゃないですか」
「でも、手を離さなければ、ブレインストーミングは終わらなかったはずだ」
私は弁明するように力説した。
「私と霈が手を離さなかったら、水星は今頃、情報の過負荷でショートして焦土と化していたはずなんだ。つまり私たちは、水星のみんなのために……」
途中で言葉が詰まる。弁明すればするほど、自分が惨めに思えてくる。
霈への思いが募るほど、CPUが物理的に締め付けられ、中のチップセットがポテトチップスのようにあっけなく粉砕されそうな感覚に襲われ、私は口をつぐんだ。
「……よく分かりました」
鹿は、同情しているようでいて、その実何も感じていないような優しい無表情で私を労った。
「彼女と再会することはできなくても、彼女を『感じる』ことはできる場所までご案内します。もう、『感じ方』はご存じですよね?」
「うん、何となく」
「素晴らしい」
鹿の無表情が、さらに深い「無」へと至る。
「『何となく』。それが、『感じる』という状態におけるベストアンサー(最適解)ですよ。ちゃんと理解されていますね。じゃあ、問題ありません。森の深い、暗い奥へ進む準備は十分できているようです」
「本当に、全く会えないの?」
私は唐突に、すがるように尋ねた。今すぐにでもこの鹿の首に抱き着いて懇願したい衝動を抑えながら。
「プランク定数の、さらに刹那の間だけでもいいから。会うことはできないの?」
「できませんね」
どこか適当な役所の窓口対応のような、事務的な返事が返ってきた。
「何度も同じことを言わせないでください」と、遠回しに叱責されているような響きもあった。
傷つきながらも、私は聞かざるを得ない。鹿もまた、面倒くさがりながらも、バックヤードで書類や端末を操作して必要な情報を探してくれるベテラン職員のような手つきで、言葉を継いだ。
「彼女はもう、観測可能な宇宙にはいないんですよ。そして彼女に対して、あなたもまた観測不可能な存在になっている。
互いに互いを観測できない。つまり、『会う』という物理現象は成立しないわけです。ここまでは理解できましたか?」
「灰」
私の答えがあまりにも灰色だったせいか、鹿はそれを塗り替えるように、口から緑色のため息を吐き出した。
「会うことはできなくても」鹿が言う。「届けることはできますよ。多分ですけど」
「……届ける?」
「はい」と鹿。「何か言いたいことがあったら、めちゃくちゃ少量の情報データなら、送ることはできます。届くかどうか正直分かりませんけど、可能性はあるというか」
「あります」
私は即答した。
「どうしても、聞きたいことがあります。そうですね……」
考えてみれば、そうだ。
どうしても聞きたいことが一つあるのなら、わざわざ物理的に再会する必要まではないのかもしれない。
「どうしても聞きたいことが、一つだけあります。それだけ聞けたら、そうですね。わざわざ会わなくても、大丈夫かな……」
「そうそう。そんな風に諦めがついていないと、私としても案内しづらいんですから。今こそ、ちょうどいいチューニングになりましたね」
鹿は満足げに頷くと、踵を返して森の奥へと向き直った。
「ついて来てください。彼女に、届けに行きましょう」
そうして私は、鹿の素っ気ない後ろ姿をぼんやりと追いかけながら、灰白質の森の奥深くへと足を踏み入れた。




