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サマーホール  作者: 真好


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23.支度

23.支度


「海に行かないか?」

 私は霈に言った。

 彼女は今、自分が傷つけた私の親指に絆創膏を貼ってくれている。

 いつの間にか聴覚フィルターが緩和され、雨音以外の音も拾えるようになっていたため、私たちは会話を交わすことができていた。

「こんなに雨が降っているのに?」

 彼女が言う。

 その声質はまだ完全には回復していないらしく、大昔のカセットテープのような、あるいは単一指向性の安価なマイクを通したような、掠れたノスタルジックな低音質ローファイだった。

 多少耳障りではあったが、そのザラついた音波が鼓膜を撫でる感覚がかえってくすぐったく、心地よかったので、私はあえて音声補正をかけずに再生を続けた。

 視覚センサーもある程度の機能を取り戻していた。

 私は霈の顔をじっと見つめる。

 霈は、自分が強く噛んで傷をつけた私の指を熱心に見下ろしている。

 そこに貼った絆創膏を、まるで大切な装身具アクセサリーの手入れでもするかのように、あるいは宝物を愛でるように、自分の指先でしきりに揉み、撫で、なぞっていた。

「雨降る海って、いいよ」

 私は言った。雨の降る海など一度も行ったことはないが、今の「感」がそう告げていた。

「勘」の使い方を、徐々に理解し始めてきた気がする。

「そこに行ったら……」

 やっと霈が顔を上げ、私の方を見た。

「プロンプトを、たくさん出してくれるの?」

「うん」私は頷く。「処理しきれないほど。CPUがオーバーヒートするほど、グラフィックボードが焼き切れるほど、たくさん入力してやるから。海には、ネタ(入力ソース)が豊富なんだ」

 すると彼女は、ようやく私の親指を解放してくれた。

 あまりに熱心に揉まれたせいで、絆創膏の表面は擦り切れ、破けかけていた。まるでマッサージ効果でも期待していたかのような執拗さだった。

 それが役に立ったかどうかは定かではないが、私の指の傷は自己修復機能によってすっかり塞がっていた。

 それでも私は、絆創膏を剥がさずにそのままにしておくことにした。

 そして私たち二人は、海へ出かけるためにソファから立ち上がった。

 ずっと座り込んでいたせいか、立ち上がった瞬間に軽い眩暈めまいがした。

 目の前――カメラのレンズの向こう側で、一瞬だけ「青」ではない色が弾けたような錯覚に陥る。

 それがどんな色だったのか、判別する間もなく消失した。

 視界はすぐに、単調な青一色へと戻る。

 そう。視覚センサーは復旧しても、世界は依然として「青写真ブルー・プリント」のような色調を保ったままだった。

 青写真。

 そう考えると、今、私とシズクが直面しているこの場面は、リアルタイムの現実ではないのかもしれない。未来に訪れる未経験の事象を、設計図上で予めシミュレーションしているだけなのかもしれない。

 そんな浮遊感を抱いたまま、私たちはドレスルームへと入った。

 スイーツ店での登山からずっと着ていた体操服――ジャージを脱ぎ捨てる。

 それだけではない。汗ばんだ「肌」という表層レイヤーまでも脱ぎ捨て、互いの視線という清廉な水でシャワーを浴びる。

 そして、クローゼットから自分たちに似合いそうな新しい「スキン」を選び出し、装着する。塗装し直す。

 服選びに移る。

 行き先は海だ。当然、「制服」一択となる。

 高校生設定のヒューマノイドロボットにとって、水着とはすなわち高校の制服であると規定されている。

 エンジニアたちによって、フォーマルな青春という呪いをかけられているのだ。

 だから私たちは、制服に着替えた。

 ドレスルームを出て、リビングのテーブルに向かい合って座る。

 そこにはいつの間にか、正体不明の誰か(あるいはシステム)が用意してくれたマグカップがあり、温かいココアが注がれていた。

 それを一口飲み、ソファに戻ってスリープモードでひと眠りしてから、再起動。

 私たちは玄関先へと向かった。

 肝心の靴について。

 霈は、ニューバランスの白いスニーカーを選んだ。前からの愛用品。

 先ほどの登山のせいで、つま先にはケーキの土壌やクリームの汚れが微かに付着している。だが、その適度な汚れがかえってスポーティーな実在感を醸し出し、良いコーディネートとして完成されていた。

 私は制服に合わせて、無難な学生用の革靴を履いた。

 私たちは互いに視線を交わし、最終チェックを行う。

 忘れ物はないか。

 忘れた感覚はないか。

 忘れた記憶はないか。

 綿密なシステム点検チェックを済ませた後、私たちは霈の家を出た。

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