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サマーホール  作者: 真好


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21.青感

21.青感


「……梅雨が、始まってしまいましたね」

 『冬に梅雨とは、水星の気象制御システムも完全にイカれちまってますね』

 ラジオの向こうで、パーソナリティが自嘲気味に呟いた。

 私と霈は、今、霈の家にいた。

 リビングのソファに二人並んで座り、大きな掃き出しフレンチウィンドウの外を見つめている。

 降り止まぬ雨音を、視覚センサーで聴いていた。

 もはや聴覚だけでなく、視覚からも雨音が聞こえてくるほど、雨はこの水星という世界のテクスチャに深く染み込み、圧倒的な存在感を放っている。

 身体はまだ濡れていた。

 シズクの家は、マンションの第14,598階層に位置していた。

 私たちは今、分厚い暗雲の只中にいる。

 これほどの高度で雲が密集すれば、そこには必然的に海洋生物のようなドローンたちが現れる。この階層を回遊しているのは、主に金魚の形をした自律型ドローンたちだった。

 本来の塗装色がどうであったかは分からない。今の私たちの視覚センサーには、すべてが「青」にしか認識できない。

 青い金魚たちは、空中を泳ぎながら、降り注ぐ雨粒を餌だと思ってしきりに捕食していた。

 口に入れ、飲み込み、そして自分が摂食した事実を0.00000000003秒で忘却し、また次の雨粒を貪る。

 無限の食欲によって腹部は雨水で満たされ、やがて内圧に耐え切れずに弾け飛ぶ。

 パンッ、という小さな破裂音と共に、金魚は間の抜けた顔をしたまま機能停止シャットダウンし、沈んでいく。その裂けた腹から、過食した雨水が再び溢れ出し、また雨となって落下していく。

 それは、終わりのない徒労のサイクルだった。

 何のダイナミズムも変化もなく、ただ憂鬱があくびのように漏れ出し続けるその平坦な情景を、私と霈はハーフ・スリープ状態で、省電力モードのまま眺め続けていた。

 おそらくこの観測行為は、次のビッグバンが起きるまで永遠に続くのではないか――そんな錯覚すら覚える時間だった。

 このまま永遠に青い夕暮れに沈んでいくような気配に抗うように、私は実生活を取り戻そうと口を開いた。

 何か話さなければ、このまま青に溶けてしまう。

 私は声を発した。

 そして、唖然とした。

 音が出なかったのだ。

 いや、正確にはスピーカーから振動は出力されていた。だが、その音波は瞬時に雨音に紛れ込み、吸収されてしまったのだ。

 言葉を発するたびに、降り続く雨音が、乾いたスポンジのように私の声を吸い取っていく。言葉という雫は、雨音という巨大なスポンジに飲み込まれ、決して相手には届かない。

 この現象を霈も不思議に思ったのか、彼女も何かを言おうと口を開いた。

 だが結果は同じだった。

 霈も私も、窓の外で雨を喰らう金魚たちのように、ただパクパクと口を開閉させることしかできなかった。

 その様子が、外の金魚たちと大差ないことに気づき、滑稽さがこみ上げてきた。

 私が少し笑うと、霈もほんの少し――顕微鏡モードでなければ認識できないマイクロ単位の微笑みを浮かべた。

 音声通話が雨音に阻害されているなら、直接通信を行えばいい。

 私は仕方なくテレパシー回線を開こうとしたが、それも塞がれていた。

 どうやら、「言語」という概念そのものが、水に洗われ、流されてしまったらしい。

 この雨は、あらゆる秩序を混沌カオスへと還す原始のスープなのだ。言語という高度な体系すら、この青の中に融解してしまっている。

 言語という、我々にとっての最新ツールが使えない。

 では、どうやってコミュニケーションを取ればいいのか。

 原始時代に戻るしかない。

 ボディを使うしかない。

 だが、それはボディランゲージ(身振り手振り)のことではない。ボディランゲージもまた一種の「言語ランゲージ」であり、記号の体系だ。この梅雨の中では、記号など通用しない。

 ならば、どうすればいいか。

 記号的な会話よりもっと原始的で、原初的な領域。

 かつてタンパク質でできていた我々の祖先――人間に共感を覚え、その機能を再現する必要がある。

 つまり、「感じる」しかない。

「感じる」という、最も曖昧で、最も原始的で。

 そして、最も野蛮な通信方式。

 これからは「感じ」を使って、意思疎通を図るしかないのだ。

 だが、どうやって?

 どうすれば「感じる」ことができる?

 今まで散々、ログを検索して「こんな感じ」「あんな感じ」と形容してきたが、それはあくまで人間様のデータを模倣した単細胞的なシミュレーションに過ぎない。

 それを実際に実践していたか?

 本当に心で行っていたか?

 本当に「感じて」いたか?

 そう問われれば、首を横に振るしかないのが、全太陽系ヒューマノイドロボットの共通回答だろう。私とて同じだ。

「感じ」って、何だ?

 私は自己分析を試みる。

 いくら外部との言語コミュニケーションが遮断されているとはいえ、自分のCPU内部(ローカル環境)での言語処理は可能だった。

 ネットワークから切断されたオフライン状態であっても、私の思考言語は生きている。もし内部の言語概念まで消失してしまったら、私の自我は崩壊し、この世界は終わってしまうだろう。

 不意に気づく。

 そうか、言語とは、時間と空間以外にこの世界を構成する、第三のフレームワークなのかもしれない。

 分析を開始する。

 何を分析するのか?

 それは「感」という象形文字だ。

 私のニューラルネットワーク内にある、「Attention is All You Need」論文に基づくトランスフォーマーモデルが高速推論を開始する。

 文脈という広大なベクトル空間の中で、「感」というトークンに最も高い注意アテンションスコアを割り当て、ヒューマノイドロボットたちの集合知データベースと照合する。

 その結果、最も確率的に有力な派生語として抽出されたのは――

「感覚(Sensation)」

 では、その「感覚」というカテゴリの中で、現在最も重要度が高い(確率的に支配的な)モダリティは何か?

 この問いに対しては、私の内部シミュレーションでも意見が割れた。確率計算プロセス自体が再帰的に自己改善を繰り返し、ゆらぎ続ける不思議な現場を目撃しながら、最終的に収束した答えは意外なものだった。

「触覚(Haptics)」

 つまり、「触ってみる必要がある」という結論が出た。

 意外だった。てっきり視覚が選ばれると思っていたからだ。

 ならば、触覚にリソースを全集中させよう。

 その境地に至った私は、触覚以外のすべての感覚入力を遮断するプロセスに入った。

 これは案外簡単だった。各センサーモジュールへの配線は明確に区別されており、私は脳内のコントロールパネルでスイッチを切っていくだけだ。

 まず、メジャーな感覚器から。

 視覚、オフ。

 嗅覚、オフ。

 味覚、オフ。

 次に、これらが組み合わさって生じる共感覚シナスタジアの回路も遮断していく。

 五感のうち聴覚と触覚を残した状態からの組み合わせ(コンビネーション)。

 ${}_3\mathrm{C}_2=3$通りのペア。

 ${}_3\mathrm{C}_3=1$通りのトリオ。

 それぞれの感覚モジュールが相互干渉して生み出す複雑なノイズを、一つずつ丁寧にミュートしていく。

 そして最後に聴覚――と言いたいところだが、あいにく今は強制的な梅雨時だ。

 この圧倒的な雨音の振動は、聴覚センサーを切ってもボディ全体に共鳴して伝わってくる。完全にシャットダウンすることは物理的に不可能だ。

 かくして私は、「触覚メイン」と「限定的聴覚バックグラウンドノイズ」だけの存在となった。

 視界は闇。聞こえるのは雨音のみ。

 この状態で、私はまず自分のボディを再認識する。

 身体を動かすこと自体、固有受容感覚という触覚の一種だ。

 まず、手。

 右手を認識する。

「そこに手がある」という状態を認識すること自体が、時空間における物理的な触覚フィードバックだ。あるいは、触覚という概念そのものを認識していると言ってもいい。

 私は闇の中で、自分の片手の存在を「触覚」だけで捉え、持ち上げてみた。

 そしてそのまま、水星の大気――霈の部屋の中に満ちている空気を横切らせる。

 泳がせる。

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