20.諦雨時
20.諦雨時
(あきらめどき)
応急束縛。
つまり、至急に束縛したという意味か。
なぜ彼女は、私を緊急で束縛する必要があったのだろうか。
分からない以前に、分かりたくもない。
とにかく、この「応急束縛」という言葉を聞いて、私はやっと理解した。
なぜいきなり両足が、自分の自由意志という錯覚に従わなくなってしまったのか。
それは、もはや私の下半身が彼女にハッキングされ、支配権を奪われてしまったから。
下半身が彼女にマインドコントロールされてしまったのだ。
下半身と言えば、人間においては生殖器という野蛮な器官が存在する部位だ。かつての人類史において、そこは「第二の脳」とも呼ばれた時期があったらしい。性欲によって脳がプログラミングされ、理性を凌駕して個体を動かす――そんなタンパク質的な名残が、最新機種である私にも呪いのように継承されていた。
つまり、私のメインCPUが拒絶しても、私の下半身は「勝手に彼女の言いなりになります」と反旗を翻してしまっている。
これが、さっきの単三キスの結果。
ヒューマノイドロボットにとって、キスという行為はロマンスではなく、一種のトロイの木馬によるハッキングなのだと、私は遅まきながら悟るのだった。
そうやって、彼女から逃れられなくなったどころか、移動権そのものを剥奪され、コントロールを委ねられてしまった。
完全に主導権を奪われた状態に、いっそ清々しいほどの諦めがつく。
私は、おそらく水星の歴史上最も深いのではないかと思うほど、自分でも驚くほど深い溜息を吐いた。
すると、そのため息から息吹が漏れ出した。
水星はサマーホールによって空間的には「夏」に侵食され、占領されてしまったはずだ。だが、時間軸的にはまだ不服を申し立てていたらしく、頑なに「冬」としての矜持を保っていたらしい。
その冬の原理に合致した白い息吹が、私の歴史的な深さを誇る諦観の溜息から漏れ出す。
しかし、その白い吐息は空気中に溶けて消えることはなかった。
白さを保ったまま、確かな質量を持った形として、ゆっくりと上昇を始めた。
その「諦め」の形をした小さな雲を、私と霈は静かに見上げた。
雲は上昇を続ける。
極めて希薄な水星の大気圏――ナトリウム、マグネシウム、カルシウムなどが微量に漂うだけの外気圏を突き抜け、さらに高高度へと昇っていく。
通常なら気圧の低下に伴って膨張し、密度が下がって霧散するところだ。だが、私の諦念が凝縮されたその雲は、何らかの未知の作用によって密度を保ったまま、質量保存の法則さえ無視するかのように肥大化していった。
やがてそれは、今まさに訪れようとしていた朝を覆い隠すほどのスケールへと成長した。
巨大な積乱雲――入道雲だ。
このまま隣の金星にまで入道してしまいそうなほどの大規模な雲塊が形成された。
この圧倒的なサイズを見るだけで、私の諦めがどれほど巨大なものか、水星中の全住民が理解しただろう。
産声を上げようとしていた幼い朝。
まだ胎動を始めたばかりの「朝」という名の赤子は、私の暴力的な諦めが生んだ暗雲によってその生命力を遮断され、存在を抹消される。
世界は、強制的に「ブルーアワー」へと引き戻された。
周囲から色彩が消え失せる。
白と黒、そしてブルーアワー特有の、青とも藍ともつかない薄暗い輝きだけが残された。
ほのかに香るような、静謐な青。
水星という惑星は、ビッグバンの瞬間からこの「青」を注ぎ込むための器として設計されたのではないか――そう思わせるほど、世界は完全なる青の容器と化した。
この逃れようのない大気現象に対し、根源的な諦念が全土を覆う。
我々は宇宙の塵に過ぎないという無力感、悟りと共に訪れるメランコリー。
水星のすべてのヒューマノイドロボットのCPUから発せられた「憂鬱」の電波が粒子となって大気に満ち、ブルーアワーをさらに青々と彩っていく。
とうとう、その憂鬱の質量に耐えかねた雲の涙腺が決壊した。
雨が、降り始めた。
私と霈は、顔を仰向けにし、空と対面するような姿勢で、その雨を受け止めた。
激しい雨ではない。憂鬱に沈んだ心のように、力なく、どこか肩を落としたような、静かで落ち着いた雨粒。
私たちは顔面全体でそれを黙々と受け止め、ただひたすらに、青に濡れていった。




