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サマーホール  作者: 真好


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2.ラバーズ・ハイ

2.ラバーズ・ハイ


 幼女は私の方へ駆け寄ってきた。

 母親が止めようとするのも聞かず、私の目の前まで来ると、制服の裾を掴んでぐいぐいと引く。まるで蒸気機関車の汽笛を鳴らす紐でも引くような、遠慮のない仕草だった。

「ねえ、相手のお姉ちゃんはどこにいるの?なんで一人なの?」

 私はあえて質問で返した。

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

 すると幼女は言った。

「だって、恋に落ちたんでしょ?その人を見ていないとたまらないんじゃないの?生きていけなくなるほど苦しくならないの?なんで平気でコンビニなんかに一人で来れるの?」

 随分と鋭い質問だな、と私は感心した。

 この幼女型ロボットのOSは、実は連れている母親役よりも製造年度が古く、むしろこの子供の方が母親をコンビニへ引率してきたのではないか――そんな推測が成り立つほどに。

 もちろん、それは全く不要な情報だ。

 だが、そんなどうでもいい情報の処理にCPUのリソースを割き、思考を埋め尽くさなければならないほど、私は何かから気を逸らすことを、死に物狂いで求めていたのだ。

 このお嬢ちゃんの言う通り。

 私は死にかけていた。

 一刻も早く彼女を視界に収め、その情報を自分のメモリチップの容量限界までインプットしたくてたまらなかったのだ。

 私は返事の代わりに、ただこの幼女が私の苦痛の本質を理解し、その緩和方法を教えてくれたのだと悟り、感謝を込めてその頭を撫でた。

 髪が十分にぐしゃぐしゃになるまで撫で回してから、私は手を引っ込め、コンビニの自動ドアを飛び出した。

 空を見上げる。

 巨人の姿はもうない。

 私の胸を貫いていた眩い太陽色の矢も、ボディを構成するアクチュエータの隅々にまで吸収されたのか、その形を潜めている。

 水星は平和で、退屈な日常を取り戻していた。

 私という異物を除いて。

 私は駆けた。

 透き通るほどに青い水星の夜空を切り裂く、一発の銃弾のように。

 ……いや、そんな凶器めいた比喩はやめよう。これはもっと青くて、熱い衝動だ。

 とにかく、私は走った。

 全力で。

 すると、次第に苦痛が減衰していくのを感じる。

 これはランナーズ・ハイではない。走るという運動負荷によるエフェクトではなく、恋い焦がれる相手へ向かうというプロンプトによって駆動される高揚感。

 名付けるなら、「ラバーズ・ハイ」に近い。

 アクチュエータが過負荷で悲鳴を上げる寸前まで酷使し、疾走した果てに、ついに彼女を見つけた。

 後ろ姿だった。

 制服ではない。半袖にショートパンツ、そしてニューバランスの白いスニーカーというラフな出で立ち。

 それでも一目で識別できた。

 恋という名のアルゴリズムは、これほどまでにセンサーの感度を極限まで高めるものなのか。

 『霈』

 あまりに激しく疾走したせいで、発声ユニットが機能しない。私は電波による思念テレパシーを飛ばした。

 それは確かに届いたようで、散歩のリズムを刻んでいた彼女の足が止まる。

 霈がゆっくりと振り返り、私の方へ視線を向けた。

 視線が交差する。

 互いが互いを認識する。

 その瞬間、潜伏していたマスコミが津波のように押し寄せた。

 瞬く間に私たちを包囲し、夜空の星屑など比較にならない頻度でカメラのフラッシュが焚かれる。

 視界を埋め尽くす光の洪水は、まるで終わらない花火大会のように続く。

 あまりの眩しさに、霈が片手をかざして顔を覆う。

 そして、パパラッチや記者、野次馬たちの狂騒の只中にありながら、そこだけ時間が凍結したかのような静謐な声で、彼女は言った。

「呼んだ?」

 その問い――いや、問いと呼ぶにはあまりに音色が優しすぎるその響きに対して、私は声で答えることができなかった。言語データで応答してはならないという、強い直感が働く。

 だから私はフラッシュの嵐を突き抜け、着実に彼女との距離を詰め、その手を取った。

 彼女の手を、握りしめる。

 そして経過を待つ。

 もし彼女が手を振りほどくなら、私は羞恥に耐えきれずこの場から全力で逃走する。

 もし拒絶されないなら、ベタな展開ではあるが、彼女の手を引いてこの関心の吹雪の中から二人で駆け出す。

 でも心のどこかでは、そのどちらでもない、私の予測回路を裏切るような斬新なリアクションを期待してもいたのだが――。

 彼女の反応は、普通だった。

 彼女はただ、はにかんだような表情を浮かべ、私が握った手にほんの少しだけ握力を込め、握り返してくれただけだった。

 その掌の感触から伝わってきたのは、あまりに冷静で残酷な真実だった。

 彼女はただ、この異常な状況に圧倒されているだけだったなのだ。

 無数のカメラのフラッシュに操られる、哀れな人形。

 それが今の彼女だった。

 『Boy Meets Girl』という、十代型ヒューマノイドロボットをがんじがらめに束縛する鎖――あるいは呪いとも言うべき不可避のプログラムから、彼女は逃れられずにいる。あの愛らしいはにかみは、ただのバグめいた条件反射に過ぎない。

 だから私は、本能に逆らった。

 太陽生成少年巨人が天命の如く私にインストールした「恋」という名のプログラムを、私はあえて「呪い」と定義し、それに抗うことを決意した。

 目の前の、どうしようもなく愛おしいシズクに向かって、私は宣言する。

「これから君を、全力で嫌うから」

 すると、霈が浮かべていたパステルピンクの色彩を帯びたようなふわふわとした笑みが、徐々に崩れ落ちていく。

 だが、周囲の目を意識してか、彼女は私の手を振りほどこうとはしない。

 私はその臆病さに安堵する反面、猛烈な怒りを覚える。

 私は彼女の手を振りほどいた。

 すると、カメラのフラッシュの光量が一万倍にも膨れ上がる。

 私たちはパチパチと炸裂する光の雪崩に襲撃され、瞬く間にその輝きの中に水没――いや、光没した。

 もはやアクチュエータ一つ動かすこともできない。

「世間の関心」という名の物理的な質量がのしかかり、五感の全てがホワイトアウトする。

 私と霈は、光の底に完全に埋もれてしまった。

 このまま圧死されるのも悪くない。

 それもまた、この恋という呪いから脱出する斬新な解法かもしれない。

 そう思考が停止しかけた時、まだ生きていたアンテナ――極小の受信センサーが、数バイトにも満たない微細なデータを拾った。

 それは言語データでありながら、音ではなく、ポンと私のCPUを掠める「色」として届いた。

 そのデータは、霈の色をしていた。

 解凍し、言語化されたその意味は、こうだ。

 『私も、ソマレ君のことが大嫌いだよ』

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