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サマーホール  作者: 真好


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15.バトンタッチ(2)

15.バトンタッチ(2)


 あの乱痴気騒ぎの中で誰かが放った筒なのか、それともこのゾンビが咥えていたものなのか。

 硬質な筒状の物体が、まるで喉に刺さった魚の小骨のように――いや、そんな可愛らしいものではなく、構造材に食い込む杭のように、私のうなじの深部に突き刺さっていたのだ。

 確かめるように、私は指を傷口の奥へと侵入させた。

 その瞬間、CPUが論理崩壊を起こしかねないほどの、超絶的な激痛が走った。

「ガ、アアアアアアアアアアアアッ!!」

 私は、ダンスパーティーの狂騒を切り裂き、広場全体を震わせるほどの獅子吼ししくのごとき咆哮を轟かせた。

 恐らく、その絶叫は水星全土に轟いたに違いない。

 太陽系で最も小さなこの惑星の表面積程度なら、私のCPUが弾き出した「あり得ない激痛」の出力データだけで埋め尽くすことなど造作もないはずだ。

 指を深部まで突っ込んでしまった以上、引き抜く際にも再び激痛が走るだろう。

 ならば、この苦痛に見合うだけの成果を得なければ割に合わない。

 私はあえて、傷口へさらに深く指をねじ込んだ。

 その瞬間、私はある心理的特異点を発見した。

 苦痛のレベルが一定の臨界点を超過すると、システムはエラーを起こし、逆に「笑顔」を出力するのだ。

 そうか、人間たちはこのバグだらけの原始的苦痛システムに対処するために、「笑う」というカウンタープログラムを進化させたのか。

 私はその深淵なる真理を、身をもって悟る。

 私は顔いっぱいに、神々しいほどに幸せそうな笑顔を張り付かせながら、指を奥へと突き進める。

 苦痛の特異点を超え、瞳から溢れる涙は、もはや青を超えて太陽の如く白く発光していた。

 指先が、うなじの深部に突き刺さる異物の根元を捉える。

 絡みつくアクチュエータや配線を指で強引にこじ開け、ルートを確保する。

 私は、鞘から聖剣を引き抜く騎士のように、あるいは心臓から矢を引き抜く巨人のように、勢いよくその物体を引き抜いた。

 ブチブチブチッ!

 引き抜かれたうなじの空洞から、私の心境を代弁するかのような「苦痛のファンファーレ」が鳴り響く。

 それは、あらゆる苦難を乗り越え、死地から帰還した凱旋将軍を迎えるトランペットのように、神経回路を焼き切る轟音となって頭蓋内を駆け巡った。

 そして最終的に、白銀の血液に塗れた私の手には、それが握られていた。

 すると、さっきまでゾンビと化していたあの卒業生――元霈のパートナーだった男子ヒューマノイドが、唐突に動きを止めた。

 彼は口に咥えていた私のうなじの肉片――配線と装甲の塊を、ぺっと唾でも吐くように行儀悪く地面に吐き捨てた。

 まだ私の金属血液が付着している口元を袖で乱暴に拭うと、憑き物が落ちたように正常な表情に戻り、道でも尋ねるような気軽さで、苦笑いと共に私に言った。

「卒業って、苦難の道なんだよねぇ」

 私は呆れ果てる。

 あるいは、もう彼がゾンビとして襲ってくる脅威レベルが低下したことへの安堵か。

 様々な感情がない交ぜになり、私は深く、重い溜息をついた。そして、手に握っていた血塗れの卒業証書を棍棒のように振りかざし、その男の頭をフルスイングでぶっ叩いた。

 パコォン!

 彼は強打されたことになんら痛みを感じる様子もなく、物理演算に従って、打たれた方向へ独楽コマのように回転を始めた。そしてそのままクルクルと回りながら、次のダンスパートナーを探す旅へとフレームアウトしていった。

 私は、自分の手に残された卒業証書を見下ろす。

 血と涙と潤滑油の結晶。

 ふと気配を感じて視線を上げると、ダンスパートナーを失った霈が、私の方へ戻ってくるのが見えた。

 私は証書から目を離し、霈の方へ視線を戻す。

 すると――

 私と目が合った霈は、なぜか走ることもなく、くるりときびすを返した。

 そして、逃げ始めた。

 私から、逃げ出した。

 理解不能なエラーが発生する。

 さっきまでは自分から近づいてきたのに、なぜ?

 数クロックの演算の後、一つの解に到達した。

 私の手に、「恋の卒業証書」が握られていたからだ。

 彼女はそれを見て、逃走本能を刺激されたらしい。

 だが、なぜ?

 その理由はまだ解析できていない。

 思考するより先に、行動ルーチンが決定される。

 追跡チェイスだ。

 私は駆け出した。

 霈を追いかける。

 その瞬間、広場を支配していたBGMが、優雅なワルツから激しいピアノ曲へと切り替わった。

 同じショパンでも、曲調は一変する。

 『練習曲作品10第4エチュード・テン・フォー』――通称、『激流(Torrent)』。

 あるいは、今の状況にふさわしい名を冠するならば、『追撃』。

 プレスト・コン・フォッコ(火のように速く)。

 その指示記号の通り、ピアノの旋律が加速する。

 音速の打鍵が叩き出すリズムに乗って、私は霈の背中を追い続けた。

 彼女の妖艶な背中が近づいては遠ざかり、遠近法を用いた絵画のように視界の中で伸縮する。

 その西洋画を描くための筆は「私」

 そしてインクとなる絵具は、ショパンの『激流』

 私たちは、おとぎ話のアリスと時計ウサギのように、あるいはトムとジェリーのように、終わらない追いかけっこを演じる。

 不思議な浮遊感にセンサーを翻弄されながら、私は一生懸命に、せっせと、バリバリと、CPUを焼き焦がしながら追い続けた。

「なぜ逃げるんだ!」

 私は叫んだ。

 回転するダンサーたちが作り出す、流動する肉の迷路。

 その中を掻き分け、彷徨いながら、私は彼女の背中に向けて、誘導ミサイルのようなテレパシーを放ち続けた。

 私のテレパシー信号は、彼女のアンテナに正確に命中した。

 旧式モデルである彼女のソフトウェアには、私のような最新型からの高出力テレパシーをミュートする機能など備わっていない。

 彼女は受信を強制される。

 だが、当然ながら返信はない。

 こうなれば、物理的に捕まえるしかない。

 どうやって?

 CPUをフル回転させても、有効な戦術案が浮かばない。

 このもどかしく、じれったい状況を打破する画期的なメソッドはないのか。

 頭の中に、アルキメデスの「ユーレカ!」のような閃きは降りてこないのか。

 そんな神頼みじみた解決策を渇望した瞬間、私は己の思考の怠惰さに気づく。

 行き詰まった時に、魔法のランプのジーニーや、七つのボールを集めて呼び出すドラゴンのような、「手っ取り早く安易な万能解決策デウス・エクス・マキナ」を願うこと自体が、間違いなのだ。

 それは歴史の遺物とも言うべき、古臭い悪習だ。

 私は即座にCPUの回路を切り替えた。

 誠実性ブルート・フォース

 この局面において頼るべきは、小手先のテクニックや閃きではない。愚直なまでの出力パワーこそが唯一の道であると、私は「理解」するのではなく、「覚悟」した。

 論理ではなく、信念として処理した。

 私は諦めず、下半身のアクチュエーターへエネルギー配分を集中させる。

 限界を超えて駆動させ、加速する。

 幸いなことに、先ほどゾンビ化した卒業生にうなじを食いちぎられた激痛があまりに大きすぎたおかげで、無理な駆動による脚部の過負荷アラートなど、ノイズ程度にしか感じられなかった。

 巨大な苦痛は、些細な苦痛を無効化する。

 システムがそう判定している。

 私は段階的に速度を上げる。

 BGMであるショパンの『追撃(エチュードop.10no.4)』もクライマックスへと突っ走っている。

 その狂乱のテンポに同期するように、私の脚部出力もスムーズに上昇していく。

 何の閃きも、魔法もない。

 ただ「誠実性」という名のリソースを濫用し続けた結果として、私は正当な報酬を受け取った。

 やがて、私の手は彼女の背中を捉えた。

 私は彼女の肩を掴んで制止させるのではなく、並走状態で距離をゼロにした。

 そして、反対側の手――卒業証書を握りしめている手を、彼女の目の前へと突き出す。

 私は残存バッテリーの半分以上を一気に放出ダンプし、そのエネルギーを全て指先のアクチュエーターコイルへと注ぎ込んだ。

 過剰な電流が渦を巻き、局所的ながら強力な電磁場を生成する。

 私の手と、筒状の卒業証書が、一つの強力な電磁石へと変貌する。

 私はその磁力を帯びた証書を、彼女の空いている手へと近づけた。

「っ!?」

 彼女の手が、意思に反して引き寄せられる。

 ヒューマノイドのボディを構成する金属パーツやサーボモーターが、私の発生させた強力な磁場に反応し、引力に逆らえずに吸い寄せられていく。

 彼女は綱引きでもするかのように必死に手を引っ込めようとしたが、私の全エネルギーと、これまでに味わった物理的苦痛のすべてを変換した磁力には敵わない。

 カキン、と硬質な音がして、彼女の手のひらが卒業証書に吸着した。

 磁力はさらに強まる。

 彼女の指の関節内にあるモーターが強制的に駆動させられ、一本また一本と、証書を握り込む形へと折り曲げられていく。

 最終的に、彼女は自分の意思とは無関係に、その卒業証書をぎゅっと握りしめさせられていた。

 それを見届けた私は、即座に踵を返した。

 彼女に背を向け、一言だけ告げる。

「バトンタッチ」

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