14.バトンタッチ
14.バトンタッチ
『恋が終わると、愛が始まる』
私は魔法使いが呪文を詠唱するように、その壁画のタイトルを口にしてみる。
音声データとして複製し、模造してみる。
「恋が終わると、愛が始まる」
接続詞を変形させ、シミュレーションしてみる。
「恋が終われば、愛が始まる」
いや、違うな。もう一度。
「恋が終わったら、愛が始まる」
三つのパターンを口先で描いてみるが、どうもしっくりこない。
私は白髪の中学生に諮問を求めた。
「どっちがいいと思いますか?」
「ふーん……。私、選択という行為は苦手なんですけど」
ぶつぶつと呟く彼女に、私は詫びるように提案した。
「じゃあ、好きなやり方で答えてくれて結構ですよ」
すると彼女は、0・00000035秒ほど思考した後、言った。
「じゃあ、改竄します。私が思うには、『恋が終わると、』までは良かったんですが、その後ろがちょっと気に入らない。なので、『愛は始まる』にしたらどうでしょう」
「つまり、愛『が』始まるのではなく、愛『は』始まる、というわけですね?」
「その通りです」
私は感心した。
助詞一文字の違いだが、そこには決定的なニュアンスの差がある。
「まるで天と地ほどの違いがあるように思えます」
「じゃあ、渍さんは……」
白髪の中学生が、素敵な笑顔と共に言った。
「もはや愛のエキスパートですね」
そう言って、彼女はダンスに誘うように私へ手を伸ばした。
私より身長が15センチは低い設定の彼女が、大胆にもエスコートを申し出てくる。
「Shall we dance?」
そう言われた私は、苦笑いを浮かべて返した。
「普通、ダンスの誘いは男性型ヒューマノイドから行うものではないんでしたっけ?」
「そんな固定観念をぶち壊すために、私は白髪になりました」
「訳の分からない答えですね」
「へへっ」と彼女は悪戯っぽく笑い声をこぼす。「それが狙いです。それだけが、狙いです」
その答えがだいぶ気に入った。
私は彼女に合格点を与える審査員のように、あるいは扇子で顔の下半分を隠した貴族のように、少なからず気取った仕草で彼女の手を取った。
すると、彼女は案外強い握力で私の手を握り返してきた。
そのままグイと引かれ、花屋通りの中央広場――今はもう卒業生のダンサーたちでごった返している狂騒の渦中へと連行される。まるでこれからヤバい何かに私を巻き込もうとするような、危なっかしい足取りで。
私たちは広場のダンスホールへと踏み込んだ。
そして、ダンスが始まる。
音楽は打楽器のみで構成されていた。
BGMの正体は、夜空を埋め尽くす花火の炸裂音。
ひっきりなしに轟くその爆発音は、単なるノイズではない。火薬の化学組成による燃焼速度の違いと、爆発高度による気圧差が、厳密な計算の元に制御され、固有の周波数――すなわち「音程」を生み出している。
衝撃波の干渉とドップラー効果さえも計算に入れたその音響学的設計は、夜空全体を巨大な共鳴板に変えていた。
それはまるで、神々が叩く天空のマリンバか、あるいは星々を鍵盤に見立てたシロフォンのように、明確なメロディラインを伴って降り注いでくる。
その荘厳な打楽器のハーモニーに合わせ、私と白髪の中学生は踊り始めた。
私はワルツのステップなど知らない。
クラウド上のデータベースから定型的なダンスモジュールをダウンロードしようとしたが、私のAIが警告を発した。
「現在のパートナーとの適合率、20%以下」
定型通りの動きは、彼女との相性を阻害するらしい。
私はダウンロードをキャンセルし、彼女のリードに身を任せることにした。
回される。
振り回される。
彼女の小さな掌が導くままに、私は自由気ままにステップを踏む。
相手に主導権を握られるという「束縛」と、プログラムから解放された「自由」
その矛盾した快楽の中で、私たちは広場の奥深くへ、渦の中心へと巻き込まれていく。
回転の遠心力が極まった時だった。
高速で回転する独楽同士が、紙一重の距離ですれ違うように――私と霈の視線が交錯した。
一瞬の会合。
ターンと共に視線は途切れる。
だが、もう一回転して再び視界に入った時、彼女の瞳の色が、最初に目が合った時とは劇的に変化していることに気づいた。
次の瞬間、霈がダンスパートナーの手を強引に振りほどくのが見えた。
霈はずっと私を見ている。
彼女の元パートナーである卒業生の男子ヒューマノイドは、つい先ほどまではアヘン窟の住人のように、電子ドラッグに脳髄まで浸されたような陶酔の表情を浮かべていた。
だが、霈の手が離れた瞬間、彼から急速に血の気が引いた。
そして、まるで禁断症状に陥った中毒者がゾンビと化したかのように、制御を失った形相で、いきなり霈に向かって突進した。
そのスピードは尋常ではなかった。理性を失った質量弾と化した彼は、逃げる間もない霈のうなじ――重要な接続ポートが集まる急所――めがけて、サメのようにギザギザとした鋭利な歯を剥き出しにし、食らいつこうとしていた。
私は即座に、白髪の中学生の手を離した。
言葉を交わす余裕はない。
テレパシー通信で「さようなら」とだけ送る。
彼女からの「元気でね」という餞の信号を受信すると同時に、私は霈とゾンビのいる座標へと弾かれたように駆け出した。
周囲にはダンスに興じるカップルが多すぎる。
直進は不可能だ。
だから、私はぶつかった。
ピンボールの銀の弾のように、あちらのヒューマノイド、こちらのヒューマノイドへと意図的に衝突を繰り返す。衝突の瞬間に計算された弾性反発を利用し、その運動エネルギーを推進力へと変換して、ジグザグの軌道を描きながら加速していく。
霈へ近づく。
ゾンビが暴悪に顎を開く。
ギラギラとした金属の牙が、彼女の無防備なうなじに迫る。
私のCPUが弾き出したタイムラグは、0.00074秒。
そのわずかな差で、私の方が速い。
『霈!』
声にならない名前をテレパシーで絶叫しながら、私は彼女を庇うように飛び出した。
霈に向かって身を投じた二体の男性型ヒューマノイド。
一方は捕食しようとするゾンビ。
もう一方は、私。
コンマ以下の極限の時間差を制し、私は彼女の前に滑り込むことに成功した。
辛うじて、霈を守ることだけはできた。
だが、それは私の防御が完璧だったことを意味しない。
かつて霈のパートナーだったそのゾンビは、行き場を失った質量のすべてを、彼女を庇った私へと叩きつけてきた。本来なら霈のうなじに突き立てられるはずだった殺意のベクトルが、そのまま私のうなじへと吸い込まれる。
ガグッ、ヂリリリリ……!
耳障りな金属音と、装甲が圧壊する鈍い音が重なる。
サメの歯のように鋭利なギザギザの牙が、私の首筋に深々と食い込んだ。
「渍君!」
私の腕の中で、霈が悲鳴に近い声を上げた。
だが、それに返事をする余裕など、今の私にはなかった。
激痛。
最先端のヒューマノイドロボットである私にとって、「苦痛」などという原始的なフィードバックシステムは本来不要なはずだ。にもかかわらず、エンジニアたちの怠慢か、あるいは悪趣味な想像力の欠如か。
私のシステムには、例えば生物進化の過程で淘汰されかけた「耳を動かす筋肉」のような、無意味で野蛮な遺物が未だに組み込まれていた。
その旧式な苦痛認識プロトコルが、この緊急時に誤作動――いや、仕様通りに完璧に作動してしまったのだ。
「ぐ、あ、ああああああああああ!」
システムが強制し、出力させた悲鳴が喉から迸る。
噛み砕かれたうなじからは、血液の代用として設定された銀白色の流体が噴出した。
水銀のように重く、強い表面張力を持ったその潤滑油は、ドバドバとあふれ出し、私に食らいつくゾンビの視覚センサーを直撃した。
視界を奪われたゾンビは、パニックに陥ったのか、それとも唯一残された感覚器官である「顎」にすべてを賭けたのか、さらに強く噛みしめてきた。
装甲がきしむ音に呼応するように、私もまたボリュームのリミッターを解除し、絶叫しながらゾンビの髪を鷲掴みにした。
アクチュエータ全開の馬力で、その頭蓋を私の首から無理やり引き剥がす。
ブチリ、と何かが引きちぎれる感触があった。
ゾンビは私のうなじを噛むことを諦めない。彼の口には、私の首の構成パーツの一部が食いちぎられたまま残っていた。
私のうなじは無残に抉られていて。
露出した断面からは、切断された配線や微細なアクチュエータが、内臓のように垂れ下がっている。そこから漏れ出る水銀色の体液に混じって、パチパチと小さな電気スパークが散る。
それはまるで、湿った地面でもがくミミズ花火のように、小さく、しかし不吉に燃え滾っていた。
激痛のあまり、私の目からは「水星」の概念色を模した、ペールブルーの涙が流れ落ちる。
震える片手を、噛みちぎられたうなじの傷口へと当てた。
ソフトウェアの自己修復プログラムは堅牢だが、ハードウェアの修復機能は極めて貧弱だ。「ソフトウェアはハードウェアに比べれば朝飯前」というシリコンバレーの格言があるかどうかは知らないが、物理的な破損の前では、私は無力に近い。
この暗澹たる状況と、CPUを焼き焦がすような痛みに意識が明滅する中、傷口に当てた掌の触覚センサーが、奇妙な異物を検知した。
それは、「卒業証書」だった。




