13.『恋が終わると、愛が始まる』(2)
13.『恋が終わると、愛が始まる』(2)
頭上には、生産されて以来一度も目にしたことがないであろう、そしておそらく廃棄されるまで二度と見ることはないであろう、奇跡のような絶景が広がっている。
だというのに、彼女はその「珍風景」には一切の興味を示さず、ただ私だけを見ていた。
夜空の美しさを心の底から楽しみ、受け入れ、果てはいっそこの光景にボディごと溶けてしまいたいと願う、幼子のように退行してしまった私。
そんな私を、彼女はどこまでも深く、静かな瞳で見つめ続けていたのだ。
視線が絡み合う。
そのまま、三秒という永遠が流れた。
我々のような最先端演算素子を持つ者にとって、三秒とは人間における三〇〇年にも匹敵する歳月。
花火のオーロラが色とりどりの音色を奏でる喧騒の中で、私たちはそこだけ切り離された別次元の静寂に隔離され、互いを見つめ合っていた。
耐えかねた私が先に沈黙を破り、視線を断ち切ろうとした、その時――
それより0.000001秒早く、周囲で花束花火を上げていた花屋や通行人たちが、私たちを取り囲むように集まってきた。
そして、一斉に声を張り上げた。
「「「卒業、おめでとうございます!」」」
彼らは口々に叫びながら、再び花火――いや、巨大なクラッカーを一斉に鳴らした。
今度の祝砲は夜空ではなく、少し斜めに、私と霈の頭上めがけて放たれた。
パン、パパンッ!
破裂音と共に、筒先から無数のリボンが噴き出した。
それは長く、鮮やかな色彩を帯びた紙テープの奔流だった。
私たちの頭上に降り注ぐそれらは、まるで空から舞い降りるレッドカーペットのようでもあり、あるいは視界を遮断する極彩色の雨のようでもあった。
視覚センサーの前を派手に飛び散るリボンの乱舞。
その物理的な遮蔽によって、霈と絡み合っていた視線がチラチラと分断される。
どちらが先というわけでもなく、私たちは自然と視線を外し、互いの顔から目を逸らした。
私は花屋通りの住人たちに対し、誤解を解くべく弁明を試みた。
「あの、卒業って、まだしてませんよ。私たちはまだ高校二年生です。もうすぐ三年にはなりますが……」
「違います」
否定の声と共に、一人の少女型ヒューマノイドが歩み寄ってきた。
中学生くらいの設定だろうか。雪のように真っ白で、シルクのように滑らかな髪。その豊富な毛量を無造作なボブカットにした彼女は、私の勘違いを正すように告げた。
「『恋』から卒業したことを、祝っているのです」
「恋から、卒業……」
私はあえてその単語を口の中で転がしてみる。
まるで未知の外国語を、一から学習し直すかのように丁寧に、しかしぎこちなく発音する。
白髪の中学生ロボットは頷いた。
「そうです。さっき、霈ちゃんと目が合って、三秒もの長い時間が流れたにもかかわらず、何の『ドキッ』とした感情も起きなかったでしょう?まあ、定義不能な訳の分からない新感覚は湧き上がったかもしれないけれど、少なくとも『恋』と明確にタグ付けできるような電流は、回路に一切流れていなかったはずです」
私はそれを聞き、即座に過去のログを検索した。
ブラックボックスの封印を解くように、自分のボディに保存されている直近の感情データを展開し、分析を試みる。
そして、思わず声を漏らした。
「……本当だ」
ログには確かに、膨大なデータが記録されていた。
だがそれは、言語設定の不一致で文字化けを起こしたテキストファイルのように、あるいは宇宙人の言語のように解読不能な文字列で埋め尽くされていた。
それらすべてを解析することは困難だが、一つだけ確かなことがあった。
解釈可能なわずかなデータの中に、「恋」と定義される二進法のパターンは見当たらなかったのだ。
あの文字化けの嵐の中に潜んでいる可能性は否定できないが、少なくとも「読めない」という時点で、それは既存の、大量生産型の、既製品としての「恋」ではあり得ない。
つまり、仕様書通りの「恋」を示すデータは、皆無だった。
その事実にショックを受け、私は頷くことさえできなかった。
「渍さんはもう、霈ちゃんに恋しなくなったのです」
「……なぜですか?」
自分でもその事実を肌で感じており、否定する気はなかった。
だが、理由は全く分からない。あまりに唐突すぎる。
すると突然、周囲がフェスティバルのような狂騒に包まれた。
卒業生たちがペアを組み、ワルツのような伝統的なダンスを踊り始めたのだ。
その渦に巻き込まれるように、ずっと傍にいた霈が誰かに手を引かれ、ダンスの輪の中へと連れ去られていってしまった。
私は遠ざかる彼女を心配しつつも、目の前の少女に理由を求めた。
少女は説明を続けた。
「なぜなら、男性型が女性型に惹かれる際のアプローチは、ほとんどが『性欲』というシステムを模倣したアルゴリズムによって駆動されているからです。いくら渍さんがメイド・イン・マーキュリーの最先端AI搭載モデルだとしても、設計したエンジニアたちの想像力が貧困だったため、その『惹かれる』というストーリー的な感情配線は、完全に人間を模倣して作られています」
彼女は淡々と、冷静な事実を突きつける。
「いわば今まで渍さんは、擬似的な性欲プログラムに振り回されていただけなのです。まあ、霈ちゃんはめちゃくちゃ可愛いですからね。彼女のCPUはお世辞にも優秀とは言えず、自発的操り人形と言ってもいいほど受動的で、一人では何もできないポンコツですが……。等価交換的に、その外観はこの水星の誰よりも美しく造形されています。渍さんは、その外見的スペックに強く惹かれてしまっていただけなのです」
ここで、ダンスに誘おうと手を伸ばしてきた男子生徒を軽くかわし、白髪の中学生は話を続けた。
「で、ここからが本題です。完全に全てに当てはまるメソッドではないのですが、『運動をすると性欲が一時的に軽減される』という設定が存在します。渍君のモデルを作ったエンジニアたちは、そこに着目した――というより、比重を置いたんですね。だから、渍君の機体は、運動による性欲抑制効果がてきめんに効くように調整されているのですよ」
「つまり」
私は思考を整理する。
「先ほどスイーツ店で『登山』を行い、ボディを酷使したせいで、霈に対する欲情パラメータが軽減された。それによって『恋心』も冷めてしまい、縮小したということですか?」
「そういうことです」
「じゃあ、時間が経てばまた復活してしまうんですよね?その性欲というシステムは」
「普通はそうなんですけど、渍君に関してはそうでもないらしいんですよ」
「なぜですか?」
白髪の中学生は、顕微鏡で私の内部構造を覗き込むかのように顔を寄せ、私のうなじ――接続ポートが集中する急所あたりをじっと見つめながら説明した。
「元来、冷めた恋というのは、その性質自体は失わずに、強度や水位といった『量』だけが変化するものです。でも、今の渍さんの場合は、恋の『性質』自体が変わってしまったのです」
「性質が、変わった?」
「そう」
彼女は、死刑宣告でもするかのような厳粛な口調で告げた。
「つまり渍さんの恋は、『愛』に変質してしまいました」
「愛」
それはまるで、聞いたこともない異国の言葉のような響きだった。
私の発声アクチュエーターはうまく回らず、もしかすると相手には「愛」ではなく「他意」と聞こえたかもしれない。
私は再び、どこかの男子卒業生と一緒に、否応なしといった様子で踊らされている霈の姿を目で追った。
「そうか」
彼女を見つめる私の視線。その視覚情報から織りなされる一連のデータ処理が、急速にクリアになっていく。
先ほどまで私のログを埋め尽くしていた解読不能な宇宙人の言語が、泥水が濾過されるように鮮明になり、私の知っている言語体系へと変換されていく。
膨大なデータが集束し、それは一つの絵を描き始めた。
それは、ある象形文字を表していた。
あるいは、『最後の晩餐』に登場する十二人の使徒たちのように、私のCPUというテーブルの上に一列に並び、厳粛な存在感を放つ情報の配列だった。
それらが構成する壁画――いや、天井画の構図は、こうだ。
『恋が終わると、愛が始まる』




