第二幕 幻影の少年
「…目を閉じて。」
柚木は彼方のいう通り目を閉じる。閉じたことを確認した彼方が孤亜に目線を送ると、指を鳴らした。
目を閉じた瞬間、空気が反転するような圧があった。
音が消え、足元の感覚がふっと消える。
次に感じたのは、紙の擦れるような音と、遠くで鐘が鳴るような静寂。
ゆっくり目を開けると、そこには——果ての見えない本の海があった。
「ここは?」
あたりには柚木しかいないのに、どこからか声がする。
空も地もない。ただ、どこまでも広がる図書館のような空間。
棚の間を漂う無数の本たちが、勝手にページをめくっている。
風はないのに、何かに導かれているかのように。
近づくと、一冊の本がぱらりと開いた。
ページには知らない誰かの記憶__小さな笑顔、夜に咲いた花、誰かを呼ぶ声__が浮かんでは消えていく。
その全てが、光の粒となって空気に溶けていった。
「……ここが、試練?」
その場所にしては、静かすぎる。
歩き出してすぐ、柚木はひとりの少年を見つけた。
薄い桃色の髪に整った顔立ち。どこか影を落とすような瞳。…そして、クロユリの礼装。
少年は棚の間に座り、分厚い本を膝に開いたまま、静かにページをなぞっていた。
「ここは、どこ?」
ゆっくりとその少年に言葉をかける。
「“心の幻影に触れる"ところだよ。」
柚木の方を見ず、本に目を通していた。
「……あの、君は……?」
声をかけると、少年はゆっくりと顔を上げた。
「……初めて見る顔。もしかして、試練の人?」
「え、あ、うん……。君は?」
「ぼくは真中 紗也ここにいるのはずっと前から。あなたは?」
「柚木……來那」
名前を口にすると、なぜか少年_紗也は微かに目を見開いた。
けれど、それ以上の反応は見せず、また視線を本へと戻す。
「來那、か。どこか、懐かしい響きだね……」
「もしかして、前に……」
「ううん。あなたとは初めまして。でも……なんとなく、似てる人を知ってるだけ」
その言葉に、柚木は息を呑んだ。
彼の声には、どこか“別れ”の重さが滲んでいた。
「…それって、埜楼のこと?」
柚木が問うと目を見開く。まるで、予想もしてなかったかのように。
「知ってるんだね。ぼくと埜楼のこと。」
「…様子を見てきてって言われたから。」
そっか。とでも言うかのような表情の紗也はとても儚く、今にでも消えてしまいそうだった。
「ねえ、柚木くん。どうして進もうと思ったの?」
不意に、紗也が問いかける。
「え?」
「君がこの試練を超えて、また前に進もうとしてる理由。__教えて?」
柚木は、少しだけ考え込んだ。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……現実に戻りたい。それだけ。それだけだと思ってた。でも、それだけじゃない。今は信じてみたいんだ。誰かを。自分の気持ちを。……それだけで十分かどうか、確かめたくて」
紗也は、その言葉を聞くと、ふっと微笑んだ。
「__なら、きっと進めるよ。あなたは、もう嘘をついてない」
その瞬間、図書館に微かな風が吹いた。
宙に浮かんでいた本たちが、まるで命を得たかのようにページを閉じて、光の粒となって空間を満たしていく。
「……え?」
「君の心はもう、閉じていない。」
紗也が静かに立ち上がり、彼のほうへ近づいてくる。
「これからきっと、色々なことを知る。悲しみや痛みもある。でもね____それを一緒に抱えてくれる人も、きっといるよ」
まるで未来を見てきた人のような、優しい声だった。
「じゃあね。」
小さく別れの言葉を交わす。
そして____世界が反転する。
光の粒が舞い、音もなく空間が揺れ、柚木の視界が真っ白に染まった。
気がつくと、彼は学苑のホールに立っていた。
目の前には、彼方が静かに微笑んでいる。
「……戻ってきたか。柚木。」
柚木は数秒だけ息を飲み、それからぎこちなく頷いた。
「ああ……ただいま」
遠くの柱の影に、あのときの少年___紗也の姿が一瞬だけ見えた気がした。
彼はこちらを見て、小さく微笑んでいた。
「…紗也…?」
柚木が小さく呟く。
けれど次の瞬間には、もう誰もいなかった。




