蕾ノ楽譜
目を開ける。
空も地面も、境界すら曖昧で、自分の存在すらぼやけてしまいそうな場所に柚木は1人座り込む。
「……ここ……どこ……?」
掠れた声が、宙に溶けていく。
意識だけが浮かんでいるようで、何もかも現実味がなかった。
辺りには白い空間が広がっている。
だがその時。靄の向こうにひとり立っていた。
黒いネコ。だが不気味なのは、目や鼻はなく口だけがあるところだ。
柚木は息を呑んでいた。
「お待ちしておりました。選ばれし者。」
そのネコが、話した。
「……君は……誰……?」
問いかける柚木の声は震えていた。
恐怖じゃない。もっと深く、理由のわからない感情が胸を締めつけていた。
「君にとっては“始まり”であり、“終わり”でもある者──そう名乗れば、少しはロマンがあるかな?
ふざけたような口ぶりとは裏腹に、その声には不思議な温度があった。
「……何言ってるのかわかんない……俺、どうしてここに……?」
「君は選ばれた。」
その言葉に、柚木の背筋がぞくりと冷える。
「……俺、そんな……どういうこと…」
「君はただ、大切なものを守りたかっただけ。」
──大切なもの?
何を言っているんだ…?
「これはきっと、“最後”の夢だよ。」
ふと、ルシェルと名乗るその存在が空を仰いだ。白く霞んだ空。
「君はこれから“選ぶ”ことになる。どの終わりを受け入れるのか。あるいは……どの始まりに、手を伸ばすのか。」
「……そんなの、わかんないよ……!」
叫ぶように言った。
けれど、ルシェルは静かに微笑んだままだった。
「大丈夫。君には、きっとできるよ。」
「俺を…現実世界に…戻してくれ…!」
ルシェルはふふっと笑いながら、話を続ける。
「……なら、五つの鍵を手に入れて欲しい。それを私に渡してくれれば返してあげよう。」
「…そんなので本当に帰してくれるのか…?」
五つ集める"だけ"と捉えるべきか、五つ"も"集めなければいけないと捉えるか。
複雑な感情に囚われてしまう。
早く現実の世界に戻りたい。と願うならきっと前者の方がいいだろう。
「もちろん。君が、そう願うなら。」
「え……?」
柚木はルシェルの言葉に引っかかる。だが、そんな柚木を気にすることなく話を続ける。
「さぁ、世界が動き出す。」
別れ際、ルシェルがふと歩みを止めた。
月明かりに照らされた横顔は、どこか影を落としている。
「……くれぐれも、クロユリを名乗る組織には気をつけて。」
その声は、いつもよりわずかに低く、重かった。
「…クロユリ…?」
「あぁ。黒いマントを纏っている。彼らは危険思想を持つ私達にとっての反体制集団だ。あるいは、世界の秩序を壊すテロ組織、とでも言っておこうか。」
追いついていない柚木に対し淡々と話を続ける。
「クロユリは人を攫う。そして異端者を集めては駒のように使う。拒めば殺される。」
「その、クロユリの目的はなんだ。」
「君が現実世界へ帰るためのカギを隠している。そして、各地方の支配をしてこの世界をまとめようとしている。」
「…気をつけるよ。」
なにかを思い出したかのように柚木の足元に行く。
「五つ集めたらこのペンダントを握り、目を閉じてください。そうすればここへ戻ってくることが出来ます。」
近寄る姿は飼い主に甘えている猫そのものだった。
「分かった。」
ルシェルの首に付いているペンダントを取りジャケットのポケットに入れる
そして──柚木の頭上から降る星屑のような白光が、静かに肩を覆う。光が増すたびに空気が冷たく澄み、指先まで凍りつくような感覚に包まれる。意識は、もう一度深い深い暗闇に沈んでいった。
だが、柚木が最後に見たのは、
ルシェルという名の、儚く微笑む影だった。
光が増すたびに空気が冷たく澄み、指先まで凍りつくような感覚に包まれる。
幻想的な雪の結晶が舞い降りてくる。柚木は目を閉じると、針葉樹の香りに包まれ、体が宙へと舞う。
柚木は身を任せることにした。
見ていただきありがとうございます
今回は柚木が異世界に足を踏み入れたお話です
目を閉じた柚木がどこへ風に運ばれて行ったのか。