第五幕 記憶に沈むもの
時間が経つのが早く感じる。月が顔を出した今でも朔から貰ったカフェオレを開けられずにいた。
あたりは誰もおらず、ただ薄暗い廊下には柚木一人だけだった。静かな廊下を歩いていると、明かりがついている教室を見つける。そこは、もう使われていない教材がたくさん置かれている教室だった。
その奥の机に灯る小さな明かりに照らされた一つの人影が見える。そこに座っていたのは__夜斗だった。
「なんだ、君か。」
手に広げていた一冊の本を閉じ、柚木を見つめる。机にはたくさんの本が無造作に置かれていた。
彼の手元には、古びたノートが広がっている。表紙には小さく「箱庭計画:α」という印字。そして手書きの文字が、整然と綴られていた。
【理想のために、人はどこまで”正しく”なれるのか】
夜斗はそのページに目を落としたまま、低く呟いた。
「この世界は、美しいだろう。争いも、悲しみの、何もない。だけど、それを守るために_僕たちは、あまりにも多くを捨てすぎたんだ。」
柚木は立ち尽くしたまま夜斗を見つめることしかできなかった。
「知っているか。”エゴ”は人を濁し、偽りの姿を作り出す。そして、月日と共に本来の姿は塗り替えられ濁った姿となる。あるべきだった姿はいずれ記憶から消されていく。そして皆いつも通りの日常を繰り返す。」
何も感情を乗せず音読するかのように、淡々と言葉を落としていく。柚木を見るその目はとても冷たかった。
「深い海に沈んでいく”偽り”を釣り上げることは限りなく不可能に近い。”正しさ”という水圧の中じゃ”偽り”も”エゴ”も取り出せないだろう。」
柚木が声をかけるより先に、夜斗は立ち上がり、淡い微笑みを浮かべながら見下ろす。
「秩序を壊すな。これは君のためでもある。そうすれば自ずと分かってくるはずだ。」
冷たくも彼らしい優しい言葉が柚木の胸に深く刺さった。
柚木は反応することが、できなかった。
__________
翌日、柚木が自分の席に座っていると、クラスメイトが声をかけてくる。
「柚木君、湊崎さんたちが呼んでるよ。」
「えっ?俺?」
教室の入り口を見ると天綺が手を軽く振り、明と夜斗は壁に寄りかかり教室から出てくるのを待っていた。柚木は恐る恐る席をたち天綺の方へ向かうと強く腕を掴まれる。
___まるで逃げられないように。
夜斗が前を歩き、天綺と明はそれぞれ柚木の腕を掴みながら廊下の真ん中を歩いていく。
「どこに連れていくの?」
「………着いてくれば分かる。」
夜斗は柚木の顔を見ず、前を見たまま返事する。
向かった先は、学園最奥の礼拝堂。その奥に隔離された空間があった。夜斗は胸のポケットから黒い百合と龍が描かれている花弁を取り出し扉にかざす。すると、その扉が優しく光り、ゆっくりと開く。
「ここは__?」
扉が閉まると、柚木の腕を掴んでいた手を離す。
ここに着くまでの道中、柚木を見ることのなかった夜斗が振り返り柚木の顔をとらえる。
「ここは、記憶を閉じ込めている空間だ。」
あたりは白い霧に包まれた無音の空間だった。
記憶の断片が浮かび上がり、柚木たちを飲み込んでいく。
白い霧の中から幼い声が聞こえてくる。
___お兄ちゃん!
それはだんだんと鮮明に映し出されていく。
そこには少女と若き日の夜斗。まだ理想に燃えた眼をしていた。
少女と共に『新しい学園』を夢見ていた姿。
「お兄ちゃん!」
少女は夜斗の手を握る。その手は僅かに震えていた。
夜斗はそのつながれた手を握り返した。
「何かあればすぐ兄ちゃんに言って。分かった?」
大きく頷き、夜斗顔を見て微笑む少女。
そして再度霧が濃くなり視界が奪われる。
「__お兄ちゃん!お兄ちゃん!!」
先程とは違い、悲鳴のような声を荒げ、必死に助けを求めてる少女。
「放せっ!その手を放せ!!!」
秩序を重んじる大人たちによって少女は“異端”とされ、連れ去られてしまい、闇の中へ姿を消した。
夜斗は抗議し、叫び、全てを正そうとした。だが、学園側は否定し、夜斗は地下室へ運ばれ、“矯正された”。
矯正された後もわずかな希望を信じ待っていた。
だが、叶わぬ念願となり夜斗の眼からは希望が消えてしまった。
____その罪と喪失を胸に今の秩序を築いた。
________
そしてもう一つの記憶。
ツノを持つことを理由に隔離され迫害される光景。
まだ小さなツノを持った少年が海辺で座り込み泣いている。
「大丈夫?明くん…」
幼いながらも顔立ちのいい少年が寄り添う。
「一緒にいない方がいい。相川くんまで仲間はずれにされるよ」
「居たくて居るの。ともだちだから。」
天綺の言葉に、堪えていたものが溢れ出す。
人と違うだけで、どれだけ“間違い”とされたか。
人の温かさに初めて触れ、自分を認めてくれた。特別な言葉は何も言わずにただそばにいてくれる“友達”に初めて出会った。
涙を拭ったそのとき、黒い靄がかかった人物が2人に手を差し伸べる。
「君たちは”異端“じゃない。僕たちで『新しい世界』作ろう。」
靄で顔はよく見えないが、クロユリの礼装を装っているのは確かだった。詠蓮や夜斗のような四方幹部を象徴するものではない、シルバーの装飾が散りばめられている。少年は優しい眼差しで2人を見つめる。
その声と共に、2人は“正しさ”の側に立った。
___柚木は立ち尽くしていた。
“正しさ”は時に人を守り、時に誰かを切り捨てる。
それは救いなのか…?
_霧の中で誰かが囁く。
「君はどうする? 違う存在を、赦せるか?」