四
着物を脱ぎ前に進み出る鎬に我は思わず目を見張った。
中々に立派な褌である。
先程の火箭の黄ばんだ褌より遙かに陽の光を照り返している。
我の毛並み同様の美しき黒。鎬はわかっているな。
水鈴殿が川から一足跳びに岩の前に戻って来た。
これまでの二人のようにはいかぬと思っているのか、顔はより険しくなり油断なく苦無を逆手に持ち身構える。
我も力にならんと水鈴殿の背中を駆け上り、右肩に乗ると真っ直ぐに鎬を見つめた。
芳烈や火箭に比べると背も高くしっかりとした体付き。
ただ他の鍛冶を営む者と比べるといささか細身か。
作る物が刀剣などではなく、苦無などの小物が中心のせいやも知れぬ。
水鈴殿が構えているのも鎬の作だ。
そう言えば水鈴殿は鎬の苦無を愛用している。
他の者が作った物より手に馴染むと口にしていた。
良き道具を作ることに関しては、鎬も間違いなく優秀な若者の一人であろう。
ただ頭領の後を継ぐとなると此奴もいささかな。
とにかく喋らん。
鍛冶職の者たちの住処は温かいゆえ、引退した忍猫の溜まり場になっており、我もよくお邪魔するが、此奴の言葉を聞いたことは数度しかない。
おまけに、そのどれも短いやり取りでしかなかった。
大抵は頷くか首を横に振るのみ。
頭の悪い奴とは思わんが愚直で寡黙。
此奴の意思を汲み取ってやれる者が補佐にでもつけば違うかもしれんが、3人の中ではある意味一番頭領に向いていまい。
正に職人をする為にだけに生まれてきたような奴だ。
鎬が両側の横褌からそれぞれ伸びている紐の内、我から見て右側をおもむろに引っ張る。
すると奴の前垂れが持ち上がった。
我の背に戦慄が走り、全身の毛が逆立つ。
水鈴殿からも唾を飲み込む音が聞こえる。
まずい。何かはわからんが、これまでの二人とは明らかに違う何かが来る!
そう思った瞬間、鎬が紐を掴んだ左腕を大きく横に振った。
ぴんと前に伸びていた前垂れが勢いよくこちらに向かって伸びてくる。
水鈴殿がすかさず苦無を投げつけたが金属同士がぶつかり合う音がして弾かれた。
まさかあの褌、布ではなく鉄 で出来ているというのか?
馬鹿な腰に巻けるような鉄などあってたまるか!
……いや元とはいえ忍猫たる者、目の前の事実を否定してはならん。
おまけに考えている時間など無い。黒褌がぐんぐんと迫ってきている。いや角度的にこれは頭上に逸れるか?
空を切り裂いた前垂れは、我の見立て通り水鈴殿の頭上を抜け大岩へと突き刺さる。
違う。前垂れは突き刺さるにとどまらず大岩を貫く。
馬鹿な!
百歩譲って黒褌が柔らかい鉄でできているにしろ、大岩を貫くなど相当に鍛えなければ無理であろうに。
あの加減を知らぬ馬鹿職人め。下手をすれば水鈴殿を真っ二つだぞ!
そんな我の気持ちなどつゆ知らず、鎬は無表情のまま左手で掴んでいた紐を放した。
すると大岩を貫いていた前垂れがこちらへ向かって来た時以上の早さで、巻き取られるように鎬の元へと戻っていく。
ガチャンと、まるで錠でも閉めたような派手な音を立て黒褌が元の姿に戻った。
鎬は身体の向きを変え再び先程と同じ所作をする。
黒褌の前垂れが先程貫いた箇所の横をまたもや貫く。
この作業を数回繰り返したあと、大岩の上部に一文字を刻むと、初めて右手を動かし我から見て左の紐を横に引いた。
すると大岩を貫いていた前垂れが捻れるように傾く。
大岩の上部の端が持ち上がったかと思うと派手な音を立てて地面に落ちた。
水鈴殿の身体は小刻みに震え、振り返る事さえできぬ。
それもしかたない。
先の二人の褌も常識外れではあったが、鎬の黒褌に比べれば児戯に見えよう。
彼女ほどの豪気な者が、鎬本人に苦無を投げる発想さえ奪い取られている。
ひと仕事終えた鎬は休まずに引き戻した前垂れを、左手側の紐を引いて持ち上げると、右手側の紐を先程よりも長く引く。
前垂れが横向きから縦になる。そこでまた左手で紐を強く引いた。今度は黒褌が水鈴殿の右側を通過し大岩を貫く。
彼はまたもや同じ作業を繰り返し、上部を削ったように大岩の左右を切り落とした。
残るは水鈴殿の背後のみ。
まだ大岩と呼んで良い大きさであるから消したとは言い切れぬ。
とはいえ当初の状態より小さくはなった。
前垂れの幅が7寸(約20㎝)程度で相手が大岩であるから時間がかかっているが、的が人であれば、最初の一撃で勝負はついている。
特殊な鉄を使っているようだし、製法も簡単ではなさそうだから量産は難しそうだ。しかし切り札程度には使えそうか。
ただ鎬はここまでしておきながら、こちらに背を向け着物を拾う。
水鈴殿の肩から力が抜けた。
「待て、鎬! まだ大岩を消し去ったとは認められぬぞ。残りも壊して見せぬか!」
お頭が叫ぶと振り返った彼は面倒そうに口を開く。
「……伸ばした先では曲げられぬ。水鈴殿に正面に立たれれば俺に策はない。水鈴殿の勝ちだ。婿など水鈴殿本人が決めればよかろう」
再び口を固く閉ざし、鎬はその場にごろんと横になった。
「馬鹿を言うでない! 彼岸衆の今後がかかっておるのだ。娘の好きにさせてみろ。儂の代で彼岸衆が終わるであろうが!」
「私は嫁になど行きませぬ! 父上の後なら私が継ぎます! 里は私が守ってみせましょう!」
「それがいかんと言うておるのだ!」
やはりこうなったか。お頭と言い合いを始めた美鈴殿の肩から飛びおり、耳だけを二人のやり取りに傾け森の中へと入る。
茂みの中から我同様現役を引退した、我の子供達が小さな白い褌をくわえてでてくる。
我がもしもの時の為に用意させていた物。
人間用の褌を引き裂いたり、別の職人からちょっと拝借した物を塗り込んだりと中々に大変だった。
子供達の協力の元、褌をしっかりと締め再び川原に戻る。
いまだに親子喧嘩を続けていた二人の間にすっと入り込み、我はお頭と向きあった。