09 理不尽な王命
グレンがティアル王国にやって来て、三ヶ月が経った。
穏やかで平和な日々に、傷ついた心も徐々に癒え、顔つきも随分変化していた。
元々柔和な顔立ちをしていたが、アレクサンドラの婚約者だった頃は、表情が抜け落ちていた。心を殺さなければ、彼女の側にはいられなかったからだ。
しかし、ティアルに来てからは感情がよく動く。
一番最初にグレンの凍っていた心を溶かしたのは、リオン、フローラ、アイリスといった幼い弟妹たちだ。
いつも元気いっぱいの彼らはあっという間にグレンに懐き、素直な感情をぶつけてくる。それにつられるように、彼の感情や表情も戻っていった。
他の王族や王城で働く獣人たちも、グレンの心を癒した。彼らは皆、グレンを大切にし、少しの憂いもないよう常に気遣っている。
彼らにとって、獣人や人間など、種族の区別はなかった。
『ティアル王国には、人間も結構いるのですね』
初めて王都を訪れた時、自分と同じ人間たちもそこそこ見られ、グレンはそのことに驚いた。
聞けば、ティアルでは人間に対する差別などはないということだった。
大国では、人間も獣人も対等で、それが当たり前のこととされている。周りの小国もそれに追随し、獣人に対する偏見や差別などはほぼなくなっている。
にもかかわらず、マネルーシ王国だけはいまだに根強く人種差別が残っている。マネルーシで獣人を見ることはほぼない。地方にはいるかもしれないが、少なくとも王都では見かけたことはなかった。
マネルーシは、意識改革が大きく遅れ、周辺国から取り残されている。
それは薄々感じていたことだが、ここに来て強くそう感じた。
家族にはそういったことも手紙で詳細に伝えており、オーウェル侯爵もそれに同意し、憂いている。政治にも強い力を持つオーウェル家なので、それとなく王家に進言しているらしいのだが、こびりついた古い考えを剥がすのは容易ではない。
ただ、家族だけは味方であることにグレンは安堵し、感謝していた。
そんな中、家族からの手紙と同時に、マネルーシ王家の封蝋のなされた手紙も届く。グレンは嫌な予感がした。
「グレン様、どうかされましたか?」
封を受け取って呆然とするグレンを案じ、ダイアナが声をかける。
「やはり、あちらはまだ未練があるようだな」
「え?」
振り返ると、ジーンがいた。ダイアナは、その言葉に目を見開く。
「お兄様、どういうことですか?」
「そのままだよ。今グレンが受け取った二通の手紙のうち、一通はマネルーシ王家からだ」
「マネルーシ王家から……」
グレンは困ったように眉を下げ、小さく頷いて肯定した。
「グレン様に、戻ってこいとでも?」
自分たちがグレンを追い出したも同然というのに。
悔しさのあまり、ダイアナの手が小刻みに震える。
グレンはその震えを抑えるように、ダイアナの手を握った。途端に、ダイアナの頬が赤く染まる。
「グレン様っ……」
「ダイアナ様、この手紙を一緒に見ていただいてよろしいですか?」
王家からの手紙を指し、ダイアナに尋ねる。ダイアナはすぐさま首を縦に振った。
「もちろんですわ」
「私は?」
ジーンがにっこりと微笑みながら自分を指差す。
「お時間があるなら、ぜひ」
ジーンは口角を上げ、力強く頷く。そして、自分の執務室へ来るように言った。
「大体の内容は想像できる。さて、どう対応してやろうか。散々コケにされたのだから、それに報いてやらねばな」
「お兄様……悪いお顔になっています」
「ふふ。楽しみなことだ」
何かを企んでいるジーン、それを窘めるダイアナ。
たった一人では、マネルーシ王家に太刀打ちできない。だが、今のグレンには心強い味方がいる。
「私はなんて恵まれているのか。……感謝いたします。ジーン様、ダイアナ様」
深く頭を下げるグレンに、二人は悠然と微笑んだ。
*
「あはははは、やはりな! とんでもないことだ!」
王家からの手紙を読み終えたジーンは、声をあげて笑った。一方、ダイアナは下を向いて身体を震わせている。グレンは、ぐったりと項垂れていた。
マネルーシ王家は、グレンに国に戻ってくるよう命じた。アレクサンドラの言い分だけを聞き、一方的に婚約破棄、ティアル王国へ行くように仕向けたことへの謝罪は一切なく。
そして、ティアルで不憫な思いをしているだろうグレンに、自国に戻ることを許す、家族にも会いたいだろう、というのだ。
今更マネルーシに戻って、どうしろというのか。
婚約破棄による瑕疵は、女性に比べて影響は小さい。
しかし、一度でも王族に睨まれたグレンを婿入りさせようとする家があるか。ないなら結婚などせずに身を立ててもいいのだが、最悪なのは、再び王命で相手を決められてしまうことだ。
「いったいどういうつもりなのでしょう……!」
ダイアナの声に怒りが滲む。
臣下をなんだと思っているのか。王家が何もかも思いどおりにできるとでも思っているのか。
「あの癇癪持ちの王女が、また親に縋ったのだろうな」
「でも、王女とグレン様の婚約はすでに破棄されています!」
それなのに、親に縋ってまで無理やりグレンを国に戻す必要性はどこにあるのか。
グレンが、疲れたように言った。
「パーカー侯爵令息との仲睦まじさを側で見ていろ、ということなのでしょうか」
「意味がわかりません!」
思わず声を荒らげてしまう。
婚約者との仲を元婚約者に見せつけて、何の意味があるというのだろう。
ダイアナには全く理解できない。
「いい趣味をしている」
「お兄様!」
「ダイアナらしくなく、取り乱しているな」
「だって……!」
怒りでどうにかなりそうだった。
アレクサンドラは、どこまでグレンを馬鹿にすれば気が済むのか。
「あのクソ王女は、よほどグレンに惚れているらしい」
「は?」
淑女らしからぬ声をあげただけでなく、あんぐりと口を開けてしまった。
あまりにも驚き、怒りが込み上げたので、ドレスがぶわりと膨らんだ。尻尾が逆立っているのだ。
ダイアナは慌てて口を閉じ、無表情になる。恥ずかしくてたまらなかったが、今はそれどころではない。
「自分に振り向かせたい、嫉妬させたい、そんなところだろう」
「彼女の考えることはわかりかねます。あの方の態度からすると、とても好かれたいとは思えません。むしろ、嫌われていると思っていました」
我儘放題で、いつも自分の気持ちを押し付けるだけ。
あれやれこれやれ、こうすべきああすべきと口うるさく、精神までも支配しようとする。まさに暴君だ。
「それでも、グレンの愛を欲していたんだよ」
一見優しい言葉だが、ジーンの声は皮肉げだ。冷静沈着な彼でさえ、表情を歪めていた。
「両親も、このことは知っているようです。自分たちのことはいいから、私の思うようにすればいいと」
グレンは、家からの手紙にも目を通していた。
ここで王命を無視することもできる。そうしても構わないと言うのだ。
だがそうすれば、オーウェル家の立場が悪くなることは明白。
「グレンのご両親は理解がある。だからこそ、迷惑をかけたくない……だろう?」
ジーンの問いに、グレンは頷く。
家族を思うなら、王命に従うべきだ。しかしそれは、アレクサンドラの思惑どおりとなり、大層癪である。
「多少強引になるが、打開策がないわけでもない」
「ジーン様!?」
「お兄様、その策とはいったい……」
ジーンは、これ以上ない企み笑顔で、二人に確認する。
「ダイアナ、この状況を打開するために、その身を捧げられるか?」
「はい!」
「ダイアナ様、いけません! 私のせいであなたがそのようなことを……!」
「グレン、お前も覚悟を決めろ」
「!」
その一言で、グレンにはわかった。ジーンの言わんとすることを、一瞬で理解したのだ。
グレンはその場で跪き、頭を垂れる。
「承知いたしました」
戸惑うダイアナをよそに、ジーンは満足げに頷いた。
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