13 エピローグ──優しい時間
急に二人きりにされると、どぎまぎしてしまう。
ダイアナが上目遣いでこっそり様子を窺うと、グレンは甘く微笑んだ。その瞬間、ダイアナの心臓が暴れ始める。
ダ、ダメだわ。グレン様の笑顔を見ると、ドキドキが止まらない! 顔も熱いし、きっと赤くなっているわ。……恥ずかしい!
グレンから見るダイアナは、いつも冷静で落ち着いている。ダイアナが内心あわあわしていることなど知る由もない。
しかし、彼は観察眼が鋭く、一見しただけではわからないダイアナの心の動きを見逃さない。それが、ほんの僅かでも。
「ダイアナ」
「は、はい」
名を呼ばれ、視線を合わせる。グレンは穏やかな表情でダイアナを見つめていた。
「グレン様……?」
「そろそろ、様なしで呼んでもらいたいのだけれど……。でもそれはひとまず置いておいて。実は、ずっと気になっていたことがあるんだけど、聞いてもいいかな?」
なんだろう?
ダイアナは小さく首を傾げながらもそれに頷く。
「はい。グレン様……グレン……は、何が気になるの?」
敬称なしで呼んでほしいというグレンの望みに応えようと、わざわざ言い直すダイアナがいじらしく、グレンはだらしなく緩みそうになる頬を引き締める。
普段はしっかり者で、いつでも凛としていて、時には近寄りがたい雰囲気を醸し出すというのに、素のダイアナは無防備で、どこまでも愛らしい。
グレンからの問いを待つ間も、あれこれ頭の中で考えているのだろう。
どんな質問がくるのだろう? 何が気になるのだろう? もしかして、何か粗相があったのだろうか?
ダイアナはじっとグレンを見つめている。平然としているが、そんな心のうちが読め、グレンはつい笑みを浮かべてしまう。そして、そんな己に呆れる。
私の妻は誰よりも、いや世界一可愛い。
まさか自分がそんなことを思うようになるなど、数ヶ月前には想像もしていなかった。
「あの……」
「あぁ、ごめんね。ダイアナが可愛らしすぎて、つい見惚れてしまった」
「……っ!」
ダイアナは、頬を染めて俯く。もちろん、心の中では大騒ぎだ。
か、か、可愛いとか! いえ、可愛らしすぎる? そう言われたわよね? どどどどど、どうすれば? どうお応えすべきなの? ありがとうございます、は変かしら? そんなことないです? ううん、それはなんだか……。うううう、恥ずかしい! でも……嬉しい……。
「ダイアナは、これまでどんな結婚相手を紹介されても頷かなかったそうだね。今はまだするつもりはないと言って。……その理由を聞いてもいいだろうか?」
意を決したような声に、ダイアナは顔を上げ、グレンを見る。
いつもと変わらない穏やかな微笑み。だがその中に、少しの戸惑いと、ダイアナへの気遣いが見え隠れしていた。
本当は、もっと前に聞きたかったのかもしれない。しかし、聞いていいものかどうか、結婚に対して何かよくない印象でもあるのかなど、グレンなりに気を遣って聞けなかったのだろう。
そんな思いが伝わってきて、ダイアナは胸が温かくなった。
結論から言うと、結婚に対して否定的な考えは持っていない。
貴族の婚姻は政略がほとんどで、最初から愛情のある夫婦は少ない。愛情と信頼は婚約、結婚した後で、一生をかけて育んでいくものだ。そう教えられたし、実際に両親を見ていてそう思う。
ダイアナだって、一生一人で生きていきたいと思っているわけではない。それでも、もう少し自由でいられる時間が欲しかった。
いずれは政略でどこかの家に嫁ぐことになるだろう。王族である以上、それを拒否することはできない。絶対に拒否できない縁談が持ち込まれたら、ダイアナだって覚悟を決めた。
だが、これまでに打診された縁談は、そこまで差し迫ったものではなかったのである。
ならば、まだ自由を選択したかった。国を潤すことについてもっと勉強したかったし、実践したかったのだ。
そういったことを、やんわりと伝える。すると、グレンは大きく息を吐き出し、安堵の表情を見せた。
「よかった……。安心した」
「安心?」
グレンはきょとんとするダイアナの目の前に移動し、跪く。
「え? あの……」
ダイアナの手を取り、真っ直ぐに見据えた。
「どさくさに紛れたような形での婚姻だったから、改めて言わせてほしい」
その真剣な眼差しに、ダイアナは息を呑む。
「ダイアナ、私はあなたを心から愛しています。どうか、この先の未来を私とともに生きてください」
すでに結婚はしていたが、グレンからの心のこもった言葉に、胸がいっぱいになる。込み上げてくるものを必死に堪えようとするが、無理だ。嬉しすぎて抑えられない。
ダイアナの頬に熱いものが伝う。それでも、グレンに精一杯の笑顔を向けた。
「私も……グレンさ……グレンを、心から愛しています。一緒に……生きたい……ずっと」
やっとのことでそう言い終えるやいなや、グレンに抱きしめられる。
強く、だが苦しくないように、ほんの少しだけある二人の距離。それがもどかしくて、ダイアナは自らその間を埋めた。
「ダイアナ」
「グレン……」
「あなたに出会えてよかった。あの日、私を見つけてくれてありがとう」
ダイアナの脳裏に、あの日の出来事が蘇る。
『それほどまで言うなら、私がいただきましょう!』
あまりにも腹が立って、思わずそう言ってしまった。
まるで物を扱っているようで、いくらなんでもあれはなかったと、後で死ぬほど後悔した。
「でも私、酷い言い方をしたわ。あなたをまるで物みたいに」
「そうかな? ダイアナだからそうは思わなかったよ。救い出してくれた女神としか思えなかった。それに、あの方にあれほどの啖呵を切れるなんて、なんて勇ましいんだろうと感動した」
「あれは……その……完全に頭に血が上っていたわ。恥ずかしい」
そう言って、グレンの胸に顔を埋めてしまうダイアナを更に強く抱きしめ、銀色に輝く長い髪を何度も撫でる。
すると気持ちがいいのか、ダイアナの身体から徐々に力が抜けていく。
「ダイアナ、お願いがあるんだけど」
小さく囁く声に、ピクリとダイアナの猫耳が反応した。
グレンはダイアナの返事を待たず、こう続ける。
「ダイアナの耳を、触っていいかな?」
「耳?」
ダイアナが少し顔を上げ、首を傾げる。
美しい銀の毛に覆われ、ピンと立った耳。ダイアナの感情によってはピクピクと動いたり、しゅんと垂れることもある。グレンはその耳に触れてみたくてたまらなかったのだ。
「いい?」
「す、少しなら……」
ダイアナから了承を得て、グレンは髪を撫でていた手を耳にやる。そっと触れると、ピクッと左右に振れた。
「大丈夫? 痛くない?」
コクコクと何度も頷くダイアナが可愛い。案の定、その顔は真っ赤になっている。
グレンは、まず耳の周りを縁取るように優しく触れ、ふわりと撫でた。ダイアナは恥ずかしいのか、またもや顔を埋めてしまっている。
「触り心地がよくて、ずっと触っていたい」
思わずそう呟くと、小さな悲鳴が聞こえた。
「わ、わ、私の心臓が持たないわ!」
髪よりも、おそらく耳を撫でる方が気持ちいいのだ。
そのことは、すでにフローラやアイリスを撫でていて知っていた。興奮して、つい狼の姿になったリオンでも実証済みである。
だから、ずっとダイアナの耳も撫でたかった。可愛がり、甘やかしたいということもあるが、何よりその触り心地がなんとも言えない。ふわふわと柔らかく、ほのかに温かい。触れているだけで癒される。
「ず……」
「ん?」
不意にダイアナが顔を上げ、真っ赤な顔でグレンを睨む。そんな顔さえ可愛らしい。
ダイアナはもぞもぞと身体を動かし、両手をあげた。そして、その手はグレンの頬へ。
「グレンばかりずるいわ。私だって、グレンに触れたいのに!」
そう言って、グレンの頬を両手で撫で始める。
最初はむきになっていた顔が、だんだんと柔らかくなっていく。男の頬など触り心地がよいとは言えないだろうに、ダイアナは幸せそうに微笑んでいる。そうなってくると、グレンも我慢がきかない。
「もう限界だ」
「え……」
グレンはダイアナの手を掴んで動きを止める。驚くダイアナの隙を突くように、唇に口づけた。
「!」
唇同士が離れ、視線が絡み合う。
目を大きく見開くダイアナに、してやったりと笑うグレン。
また、みるみるうちに赤くなるダイアナに、今度は頬に唇を落とす。
「グレン!」
「愛しているよ、ダイアナ」
「……っ! それは、さっきも聞いたわ!」
「何度でも言いたい」
「~~~~っ!」
口説かれ慣れていないダイアナは、甘い言葉の連続攻撃に撃沈するしかない。
こんなの、想定外よ! 穏やかなグレンはどこへ行ったの? 今のグレンは甘すぎて、溶けてしまいそう……!
「こんな気持ちになったのは初めてなんだ。だから、正直戸惑う気持ちもあるけれど、ダイアナには嘘をつきたくない。ダイアナをこれ以上ないくらいに甘やかしたいし、愛していると言いたいし、いつでも触れていたい」
耳元で囁く声まで甘い。
ダイアナはゆっくりと顔を上向かされ、グレンの蕩けるような視線に囚われる。
「こんなに可愛い人を妻にできて、私は世界一の幸せ者だね」
そう呟くと、再び顔を近づけてくる。
少しずつ、少しずつ──。
私だって、世界一の幸せ者よ。
心の中でそう呟き、ダイアナはそっと目を閉じる。
あの日、たまらず連れ帰ることになった侯爵令息が、夫になるなど思ってもみなかった。しかし、今はあの日の自分をめいいっぱい褒めてやりたい。
私、よくやったわ!
その瞬間、唇が重なる。段々と深くなるそれに、ダイアナはやがて翻弄されていく。
あの日、あの場所で出会ったのは、きっと運命だ。
「運命」などという言葉を信じたくなるほどに、ダイアナの心はふわふわと幸福に酔いしれていた。
了
こちらで完結となります。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
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