忘れていた誓い
自分の内側から際限なく、力が引き出されていくのと同時に、身体が深く深く、暗い水の底へ引き摺り込まれる様に藻搔いでも、身体に纏わり付く黒い汚泥の如き、靄が錘となって動きを妨げ何も出来ず身体が沈んでいく。
不思議と恐怖はなかった。
寧ろ、人の憎しみを際限なく見続ける地獄より何倍もマシで、不快感から抗っていたのが馬鹿らしく思え動きを止めれば、もっと簡単に沈んでいき──底に光を溢す亀裂を見つけた。
「なんだコレ」
暗闇の中で目立つその光は、何処か暖かくてゆっくりと其処へ向かって泳ぎ、亀裂に手を伸ばし触れると、一気に世界は明るくなる。
反射的に目を瞑っても、眩しいと自覚できる光に目がやれて、暫く何がなんだか分からなかったが、ゆっくりと光に目が慣れていき、開いた先に広がっていた光景は酷く懐かしい気持ちになる子供部屋だった。
「ァァァァア!!」
両腕を広げ、叫ぶと同時に拳の先から突き出している刃が鋭く伸び、暴走状態の綾人は私に目をくれず、吹き飛ばした壱与の元へと駆ける。
「獣が!!」
「綾人!!避けて!!」
私は咄嗟に叫ぶが、綾人に避ける素振りは見られない……暴走状態は際限なく、サードアイの力を引き出せる代わりにその高揚感や、闇のサードアイだけかもしれないけど強い破壊衝動に駆られて理性が働きづらくなってしまう。
それは力を使い熟す為に訓練していた私も同じ……明らかに期間が足りていない綾人じゃあ、衝動に駆られたまま獣の様な戦い方しか出来ない、そう思っていたのに。
「ァアアア!」
「避けた!?」
綾人は器用に身を翻し、ワイヤーを避けると天井を蹴り、加速し壱与に刃を振り下ろし、ワイヤーとぶつかり火花を散らしたかと思うと、乱暴な型なんてない喧嘩キックで壱与を蹴り飛ばす。
……暴走してるはずなのに、人間らしい戦い方をしている……?
「アァァァァァ!!」
「純正は本能的に戦う事を理解しているという事か!」
綾人の咆哮に合わせる様にその背中に黒い剣が、円を描き現れる。
「アァ……」
爛々と輝く赤い瞳が一瞬、強く輝いたかと思うと空気の壁を突き破るほどの速度で、黒い剣が壱与へと放たれる。
私の目には全く、追えないソレを壱与は頬から血を一筋溢し、避けるが次々と放たれる剣に徐々に追い詰められている様に見える。
少なくとも、私と戦ってきた時の余裕の表情ではない。
「くっ!」
指と繋がっているワイヤーが剣により、壁と縫い付けられた事で引っ張られ壱与の動きが阻害され、それを見た瞬間綾人が勢いよく飛んでいく……これを狙っていたの?
「貴様がどれだけ足掻こうとその娘の運命は何も変えられぬ!!終わりは、定まっているのというに何故抗う!!」
……私の運命はとうの昔に定まっている、綾人がああやって火と雷で生み出された壁を躊躇なく殴り、壱与へとダメージを与えようが、私はもうじき死ぬ。
覚悟していた、分かっていた事だ、私の身体はもう人ではないものに変わりつつあってその状態で、厄災を呼び寄せる為に更に力を引き出した……こうして思考して、人の身体を保っている今が奇跡のようなものだ。
「……綾人……もう、私は良いから……貴方だけでも逃げて……もう、貴方が傷付く事はしなくて良いから……」
僅かに漂う焦げた様な匂いはきっと、綾人が闇雲にあの壁を殴っているから。
守る事よりも攻撃する事に意識を割いているから、壁の影響をモロに受けしまっているんだ。
「ァァァァア!!」
「言葉を理解する知性すら失ったか獣め!!爆ぜよ!!」
壁が爆ぜて煙幕の中から、綾人が飛び出しきてゴロゴロと転がりながら、目の前までやってくる。
「……綾人」
「ァァ……ヒーロー……マモル……ヤクソク……ネム……」
「……え?」
「俺、将来は親父も超える警官……いや、ヒーローになるんだ!!」
画用紙を広げ、手に持つクレヨンを精一杯、動かしながら特撮ヒーローの様な絵を描く小学生くらいの男の子は、高らかに自分の夢を目の前の少女に語る。
「……ヒーロー?」
彼女はあまり、特撮に詳しくないのか首を傾げながら少年の顔を長い髪の向こうから見つめる。
「そう!わるいやつを、かたっぱしからぶっ倒して、困ってる人を笑顔にするヒーロー!!親父が警官だから俺じゃ間に合わない人達を助けて、母さんがお医者だから怪我人を助ける!そんで、俺がすっげぇわるいやつを倒せば皆んな笑顔だ。凄いだろ音夢!!」
幼いが故の無限の可能性を語る少年は、テレビで見た特撮ヒーローの記憶を頼りにクレヨンを動かしているのだが、黒色が好みの為か、全体的に黒いヒーローの姿が画用紙の中には合った。
「顔は隠すだろー、それであとは爪みたいなのがあってー」
『……ダークヒーローみたいな外見だな』
絵を覗き込んだ綾人は、その姿を見て小さく笑ってしまう。
ほぼ黒一色で描かれた姿は、どちらかと言うとアメコミとかで出てくるダークヒーローらしい風貌で、少しばかり厳つい印象を与えるもので、恐らく、趣味が多大に反映されているであろう事は容易に伺えた。
「あとは……うーん……どうしよっかな……」
迷いのない動きでクレヨンを動かしていた少年の手が止まる。
全体像が出来上がったが、何か物足りないのか両手を組み、うーんうーんっと身体を左右に揺らしていた。
「ね、ねぇ、私が描いても良い?」
「ん?良いぞ!音夢のヒーロー像を教えてくれ!」
少年はきっと、音夢にとってのヒーローが描かれるのだと思い、クレヨンのセットを渡したのだが、彼女にそのつもりはなくセットの中から、赤いクレヨンを手に取ると、少年が描いていた絵のヒーローの右肩に、マントを描いた。
「おぉ!格好いいな!!」
「マントはヒーローの証って聞いたから……喜んでくれたのなら嬉しい!」
少年もその絵がしっくり来たのか画用紙を手に取り、立ち上がる部屋の壁に貼り付け、斜め前に立ち右手を斜め上に、左手を斜めに下にして絵の中のヒーローと同じポーズを取る。
「ヒーロー参上!へへっ、格好いいか?音夢」
「うん、格好いいよ綾人!」
「へへっ……よっしゃ、音夢!何かあったら俺が絶対、守ってやるからな!」
『……あぁ、そうか。そういう約束をしたんだよな俺は。全部、忘れていたなんて無責任なことしやがって……』
音夢という少女が、転入してきて上手く喋れない事から虐められていたのを、偶然見かけて助けた事をきっかけに、彼女との仲を深めていった俺は、憧れのヒーローっぽく約束をしたんだ。
それなのに、自分を守るために忘れてしまったんだ……思い出すのがおせぇよ……
「綾人は私のヒーローだよ」
『綾人が私のヒーローだったからだよ今も昔も変わらずに』
……ヒーローか。
君は本当にずっと、俺をヒーローだと信じてくれていたんだな。
視界が光り輝き、気がつけば小さな俺と向かい合っていた。
『……ごめん、そろそろ限界かも』
「……ありがとうな、危険な時は代わってくれて」
『良いよ。例え、自分自身でも困ってるのなら手を差し伸べるのがヒーローだから!』
「眩しいなぁ……昔の俺は」
『へへっ……覚悟は出来てる?現実は夢ほど甘くないよ』
「だろうな……けどもう、目は逸らさねぇよ。ヒーローが逃げてばっかりじゃあ、格好悪いからな」
ニヤリと笑えば、同じ様な笑みを返してくる小さな俺……この頃から既に若干、人相が悪いんだな。
前へと歩き出し、右手を小さな俺と同じ様な高さになる様に差し出す。
『初恋の相手を頼んだぜ俺』
「あぁ、任せろ俺」
パチンっと乾いた音が鳴り響き、視界は真っ黒に染まり、俺は軽い身体で僅かに見える光へと駆け出し、勢いよく飛び出した。
「復活しただと!?」
「……その姿は……」
右肩にかかった赤いマントを翻し、壱与の野郎を仮面の奥から睨み付ける。
「ヒーロー参上ってな。今まで忘れてて悪かったな、音夢」