笑って欲しくて
今まで微塵も思い出せなかった癖に、音夢が落とした亀のぬいぐるみ……それもかなり大切にされているのか年季を感じられるというのに糸の解れや、穴などなく汚れも床に落ちてしまった際の埃ぐらいしかついていない物を拾い上げた時、俺の意識は過去へと旅立った。
「んー……何が良いかな」
小さな自分の背中を眺めるってのは、なんか不思議な感覚だな……確かこの時の俺は友達になったばかりの彼女の両親から、誕生日が近いという事を聞いて二つの家族総出で出掛けた水族館に来ていたんだっけか。
当時は手伝いをしたら、その報酬って事で貰ってた小遣いが入ってる財布を握り締めている小さい俺は、水族館の売店にある色んな物を手に取っては違うなーってやったり、こういうところお約束の値段の高さにびっくりしていたりしながら、『贈り物』を見定めていた。
「あいつ、いっつも真顔だからなぁ……笑ってくれると良いんだけど」
『……あぁ、そうか。音夢は笑っていなかったな』
偉大な音楽家の一人娘……周囲から向けられる期待や羨望、嫉妬、憎悪などのいった重責と視線を背負っていた彼女は下を向いて、誰とも話す事なく周囲に何されても何も言わない、そんな子だったんだ。
というか、過去を見てるって扱いのせいか妙に反響した声だな俺の声。
「あ!」
小さな俺が歓喜の声を上げながら、口角が上がって笑顔の様な表情を浮かべている亀のぬいぐるみを見つけて手に取る。
……俺の手元にあるぬいぐるみと全く同じのソレを満面の笑顔でレジに持って行き、誕生日プレゼントだって言うのにそういうところに気が回らない小さい俺は至って普通の面白みのない、その水族館の袋にぬいぐるみを入れて貰い、売店のすぐ近くで待っていた皆んなのところに走って戻っていき、休憩用の椅子に腰掛けながらいつもの様に下を向いている彼女の目の前にしゃがむ。
「音夢!誕生日おめでとう!これ、プレゼント!」
『直球だな俺』
水族館を出たらとか、何か考えられなかったのか?とは思うが、今の俺と同じ様に微笑ましいものを見る様な笑みを浮かべている大人達を見れば、子供らしくて良いのだろうな。
「……誕生日プレゼント」
「そう!ほら、早く見てくれよ!」
急かされた音夢はゆっくりと袋を開けて、中から亀のぬいぐるみを取り出すと暫くの間、マジマジと見つめてその後、小さい俺を相変わらずの無表情で見るがその顔は何処となく嬉しいそうで、小さい俺もそれを理解したのかニッ!っと笑うと彼女のを方へ手を伸ばし、人力で口角をあげる。
「嬉しい時はこうやって笑って良いんだぞ。ほら、そのぬいぐるみみたいに!」
「……う、うん。ありがとう、綾人」
そう言って彼女は、笑い慣れていない為か少しだけ引き攣ったそれでも今出来る最大の笑みを浮かべてくれた。
「今の音夢が浮かべる笑顔……あいつ、相当練習したんだな」
普通の声が出る共に周囲の景色がまるで、引き伸ばされる様に変わっていき一瞬、眩しくなったかと思うとどうやら現実に戻って来たらしく、暴走状態の音夢と飛鳥が睨み合いをしている場面に戻った……現実じゃあ、時間は経っていないのか、不思議現象だな。
「ずっと持っていてくれたんだな」
ぬいぐるみに付いた埃を払いながら、俺はゆっくりと音夢の方に向けて纏っていた闇を消しながら歩いていく。
「ちょ、綾人!?」
「任せてくれ飛鳥」
身を守る物はEPSしかなく、それもサードアイの力を単品で受け止められる様に出来ているものじゃないから、もしも音夢が大技でも使おうものなら何一つ、身体は残らないな。
自分でも馬鹿な事をしている自覚はあるが、恐怖心は何もなかった──なんなら、殺されても構わないとすら頭の何処かで考えている自分が居る。
「音夢」
その名を呼べばビクッと身体を反応させる。
デクスターや飛鳥にした様に、問答無用で襲い掛かる姿勢は見せないけど全身に力が入ってるのを見る限り、安全だと判断するのはダメだろうな。
まぁ、それが分かったところで足を止める気なんてさらさら無いが。
「君と過ごした時間のほとんどを思い出せない無誠実な俺の為に、そんな状態になってまで戦ってくれてありがとう。情けない事に、君がそうして戦ってくれなければ俺は今、こうして生きている事はないだろう。まぁ、デクスターの野郎の事だから死に掛けぐらいで止めるかもしれないが」
ゆっくりと、声を極力優しいものにしながら手に持つぬいぐるみを、音夢に見せながら彼女に近づいていく。
「サプライズも丁寧なラッピングも何もない、子供らしい贈り物。ずっと、大切に持っていてくれたんだな」
威嚇する様に振り上げられた爪がゆっくりと下がっていき、彼女と俺の距離は拳一個分ほどの距離になる。
──そっと手を伸ばして優しく彼女を抱きしめた。
右腕は無理やり動かした事で激痛が走るし、音夢の毛皮はかなりの剛毛なのかもはや傷口に刺さるレベルだし、ぬいぐるみを血で汚さない様にするのが大変だけど、それでも彼女を俺は優しく抱き締める……俺が暴走した時にやって貰ったみたいに。
「もう大丈夫だ音夢。此処にはもう敵は居ない……俺の熱を感じられるか?音夢のお陰で俺はこうして生きている。だからもう、安心してくれ」
耳元で囁く様に声をかけながら、より強く彼女を抱きしめると荒々しい雰囲気が徐々に消えていき、痛いほど突き刺さっていた毛皮はいつもの軍服に戻った事で、より強く優しく彼女を抱き締める。
「……あや……と?」
「……あぁ」
あどけない声で名前を呼ばれ、ゆっくりと彼女を解放しながら顔を見る。
病的なまでに白い肌に黒い髪と、漆黒の右目がよく映えモノクロな彼女に彩を加える様な赤い瞳は痛々しい物だと思ったが、それに守られた俺にとってはあまり気にならず、それさえも綺麗だと思えた。
「ほら、落としたぞ」
「……これ」
亀のぬいぐるみを手渡すと、驚いた表情を浮かべて何処となくポカンっとした顔を浮かべるものだから、それが可笑しくて少し笑いながら、記憶を再現する様に左手で音夢の口角をあげる。
「嬉しい時は笑って良いんだぞ」
「ッッ!!綾人!!」
「うおっ!?」
感極まった様子の音夢に押し倒され、床に派手に激突すると思った次の瞬間にはまるで液体の様ななんとも言えない物に衝撃が吸収された……液体?見るも無惨になってるとは言え、此処は仮にも発電施設、浸れる様な水がある訳ないと思うんだが……
「これは……まさか、壱与!?」
壱与?確かその名前って……そんな事を考えながら視界は真っ黒に染まった。




