老齢の器
暗闇を支配する演奏が常人であればそれだけで気絶するほどの殺意を込められ、高らかに奏でられると共に、黒薔薇の騎士は、その鈍重な身体を動かし、上段から両手剣を一切の怯み無く真っ直ぐに振り下ろす。
その力で砕かれるのは、老人のか細い身体ではなく地面に敷き詰められた黒いアスファルトであり、無数の礫となって宙を舞い、全てが地に落ちるより早くその姿を消した伊藤の一撃が、黒薔薇の騎士の横腹を裂き、振り返った瞬間にはその傷は綺麗に塞がってしまい何事もなかった様に再び、上段から両手剣が振り下ろされる。
「(単純な技量で見れば、儂の方が上回っている。恐らく、演奏者である土御門本人が剣術に明るくないのだろうな。であれば、押し切ってしまうのが正解だが……再生能力というのは死兵より厄介だな)」
仕切り直しも兼ねて、後方へと飛び退きながら状況を整理していく伊藤であったが、彼の頭の中で整理が進むほど、相性が悪いという結論がどんどん色濃くなっていった。
「儂に日野森の嬢ちゃんの様な、一瞬で全てを焼き尽くす……そんな範囲攻撃があれば良かったんだが」
鈍い金属音を響かせながら、自身に迫ってくる黒薔薇の騎士を睨みつけながら、伊藤は刀を握る手に力を込める。
無いものを強請ったところで仕方がない……であれば、この身を鍛え上げ磨き続けた己の武に頼るしかあるまいよと、自らを笑うと共に雷が伊藤の身を纏っていく。
「(何か仕掛けてくる?)」
演奏を続けながらも、音夢は伊藤が笑みを浮かべているのに気がつき、彼がこれから行う行動は何かしらの勝算があるのだと、理解し警戒する。
その意思が伝わったのか、歩き続けていた黒薔薇の騎士も動きを止め、上段ではなく中段に持ち替え、伊藤がどの様な動きを見せても即座に対応が出来る様に、身構えたその瞬間──
「韋駄天」
──伊藤は黒薔薇の騎士を超え、演奏を続けている音夢の目の前に現れた。
「ッッ──」
「その首、貰い受ける」
伊藤は雷のサードアイを、自身の身体能力向上にも使用している。
人間が自らの行動を、その肉体に命じる際、認識してから使いたい部位への伝達が行われるが、その時に走る電気信号を自らの意思で制御、加速させる事で本来では不可能な速度で身体操作を可能としており、その加速を極限まで突き詰める事で、人の目では決して捉える事が出来ない速度で走ったのだ。
完全に音夢の虚を突き、振るわれる刀は雷を纏いながら闇を切り裂き、音夢の病的なまでに白い首筋へと吸い込まれていき、その首を──
「少し冷や汗をかいたよ。長生きしてるだけはあるね」
「……お主、人間か?」
──断つ事は出来なかった。
バイオリンが邪魔にならず、かつ彼女の伸びた髪が覆い隠している為、死角になりやすい左側から狙ったにも関わらず、彼女の首と伊藤の刀の間には、先程まで演奏に使われていたバイオリンの弓が割り込んでおり、しかも切断される事なく刀と鍔迫り合いをしていた。
よく見れば、弓には黒い靄が纏われておりそれによって刀身が本体に届いていなかった。
「でも、届かない。私の闇を前に、貴方はあまりに無力」
鍔迫り合いを維持したまま、音夢の爪先による蹴りが伊藤の腹部目掛けて放たれ、攻撃を防がれた事に驚き、防御する余力のなかった伊藤は、腹部を蹴られた事で怯み、首元まで迫った刀が鬱陶しいかった音夢が力を込めた事で簡単に弾かれてしまう。
「……儂とした事が面食らうとはな。まだまだ修行不足か」
「老人はとっとと、隠居したらどう?」
子供の様な笑みを浮かべる伊藤を罵倒しながら、右足による回し蹴りを放つ音夢だったが、その蹴りが当たる直前に伊藤が杖の先端を、音夢の顔目掛けて突きつけた為に、片足で後方へと飛び攻撃は不発に終わる。
「まだまだ儂は現役よ。少なくとも、お前さんやその背後にいる者を斬り伏せるまではな」
「歳を取ると頑固になるって本当だ。今は流行らないよ、そういう熱血」
「若いのに悟った顔をする世間知らずよりは、マシだろうよ」
背後を見る事なく、自らの背中へと迫った黒薔薇の騎士の腕を斬り飛ばし、攻撃を事前に防ぐと再生するまでの時間を使い、その巨体を足場に跳躍し蹴り崩しながら、雷を纏い音夢へと迫る伊藤。
「槍よ」
騎兵を相手取る様に、真っ直ぐと突っ込んでくる伊藤を迎撃する為に、槍衾の生み出す音夢。
だがしかし、それは鋭い先端を嫌がる馬や、回避行動をとっても間に合わない相手だからこそ有用であって、刺殺への恐怖で動けなくなるほど、伊藤は柔な精神をしておらずまた、自らの動きを制御出来ないほど未熟者でもなかった。
隙間など一切なく、並べられた槍衾を伊藤は逆に、自らの足場へと変えそれに気がついた音夢が、槍を消すより早く次の槍へと飛び移り、やがて槍の壁を超え音夢へと迫る。
宙に浮かぶ伊藤が降りてくるタイミングに合わせ、蹴りを放つ音夢だが伊藤の姿が消え、次の瞬間には振り上げた音夢の足より下に彼は、しゃがみながら刀を引き抜き雷に彩られた白銀が、闇を断とうと横一閃に放たれた。
「──弾けろ」
「ぐっ!?」
散弾銃かと見間違う衝撃が刀を通し、伊藤の手に伝わるとその手から勢いよく刀は弾き飛ばされ、宙をクルクルと舞いながら、地面へと突き刺さる。
──空間が爆ぜた?……いや、違う!儂の刀と土御門の間にある闇が、ピンポイントで爆ぜたのか!?
「馳せ参じろ」
「……どれだけ能力を使い熟しておるんだ」
体勢を崩された黒薔薇の騎士が、音夢の言葉と再開された演奏に従い靄に戻ると、伊藤との間に再構築され再び出現する。
刀が弾き飛ばされた伊藤に、圧倒的な暴力と呼べる黒薔薇の騎士の上段振り下ろしを防ぐ手段はなく、その姿を見上げる伊藤は思わず死を覚悟した。
『……お前にこの刀を託す。だから……死ぬな!』
走馬灯の様に走る景色の中に、大雨に打たれながら徐々にその熱が奪われていく、若い男を伊藤は抱き上げながら、震えた手で差し出された刀を受け取るものがあった。
刹那、何倍にも引き延ばされた時間の中、伊藤は生きる為に飛んでいった刀に手を伸ばし、自らの身体を帯電させる事で磁力を生じさせ、広げた掌に吸い寄せられる様に刀が円を描きながらその手に戻る。
刀を手に取った伊藤の目は、力強さに満ちておりそこに先ほどまで、死を覚悟していた男の姿はなかった。
ゴォォオン!!!!!
「ッッ!?」
辺り一面を覆う黒い靄を裂くように、空から雷が轟音と共に伊藤に向けて落ちる。
「雷神の放電」
居合と共に落ちた雷に引けを取らない轟音が鳴り響き、音夢の演奏を掻き消しその音と光に目を閉じていた音夢の目が再び、開かれるとそこには無惨な死体となった伊藤の姿はなく、何故か黒薔薇の騎士の剣が彼の眼前、一センチのところで停止している光景が広がっていた。
「何が──ッッ!」
口を開いた瞬間、自身の右手に走る痛みに視線を向けると、纏っていた闇を越えたのか軽傷ではあるものの、切り傷が走っており、白い肌のため赤い血がヤケに目立っていた。
そして、変化はそれだけには留まらなかった。
殺せと命じようと、黒薔薇の騎士を見た瞬間、黒い靄で作られたその身体を蝕むひび割れのように、雷が走っていくと次の瞬間、黒薔薇の騎士は一辺二センチ程度の細切れとなり、音を立てて崩れていきやがて消えていった。
「歳を取るのも良いことばかりじゃないな。諦めが良くなっていかん」
立ち上がった伊藤は真っ直ぐと、音夢に向けて刀の切先を向ける。
「懐かしい感情を思い出させてくれて、感謝するよお嬢ちゃん」
「……そう。でも、今日の目的は戦力調査。これで終わり」
黒い靄が吹き荒れ、音夢の姿を隠し晴れた瞬間にはもうそこに音夢の姿はなかった。
周囲の暗闇が晴れていくのを確認しながら伊藤は、疲れた様子でその場に座り夜空を見上げる。
「あぁ──疲れた」